最終章 Case 4

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Case 4 兄と弟 龍之介⑤  春先は、まだ肌寒い。  冷えてしまった指先に、コーヒーの入ったカップを持つ両手がとても温かかった。  公園は広く、ベンチがあるのは池沿いの方だけだと言う龍之介の案内で黙々と歩いていた四人だったが、芝生の広がる開けた場所を通り過ぎようとした時「ベンチまで行かずに、ここに座りましょうよ」とのユキの一言で芝生広場に腰を下ろし、それから思いおもいに春の日差しに目を細めている。  広場では歩き始めたばかりの幼い子供が、芝生の上で素足で遊んでいた。  転ぶのを厭わず、何度でも立ち上がり足を踏み出す。そのたび両手を上にあげて、バランスをとるその様子は愛らしく微笑ましい。  それを目にした者は皆、自然と笑みが溢れた。あのように幼い頃が、自分にもあったのだ。恐れも不安も、何も知らない。暖かな日差しはどこまでも暖かく、足の裏に感じる力強い地面でさえもすべてが楽しく、輝くばかりに純真無垢な頃が。  それなのに今はこうして日向に座っていても、首の隙間から冷たい空気が背中にすっと入り込み、寒さを感じて身震いをする。そしてそれは、不安に良く似ていると龍之介は思うのだ。  時折感じる言いようのない不安は、暖かいのに薄ら寒い春の日によく似ている。満たされている筈なのに、どこか寂しい。  本当は、どこまでいっても満たされることなどないのだと言わんばかりに。 「で、ユキはいつからこれが始まったのかは、分からないんだな?」  倉部の言葉にコーヒーのカップを大切そうに抱えたユキが、こくりと頷いた。 「うーん……とりあえず生活に支障はなかったってことですよねぇ。それならきっと、大丈夫ですって。一時的なものかもしれないし、この場所のせいかもしれない……でしょ? ね?」  大袈裟な仕草で辺りを見回した後、鬼海はユキに微笑みかける。  それに対し、ユキは何も言わずに鬼海がくれたカップに口を付けた。  ……甘い。 「鬼海の考えは、甘いな」 「そうですかねー? じゃあ、ユキさん教えてください。いま芝生広場には何が見えますか?」 「……小さな子供が見えるわ」 「ほら、ほら、ね?」  鬼海がまさに鬼の首をとったような顔で倉部の方を見た。 「服装は?」  そんな鬼海をちらりと見た倉部が、重ねてユキに尋ねる。 「白いカーディガンに花柄ビーズの刺繍。赤いスカート。不思議そうに芝生に手を伸ばし、もう片方の手は、お母さんと思われる良く似た女性とぎゅっと繋いでます」 「……ユキさん」  芝生広場で突然小さな泣き声があがる。  素足で遊んでいた幼い男の子が、芝生に突っ伏したままの姿で、立ち上がるのを諦めたのだ。  柔らかな低い笑い声をたてた男性は、その男の子のをやすやすと抱き上げる。  男の子の父親のようだ。  背中を宥めるように、ぽんぽんと軽く叩き何か慰めの言葉を掛けているようだったが龍之介たちのいるところまでは届かなかった。 「……それから? もっと聞かせてくれ」  目線で鬼海の言葉を制すると、倉部が優しく促した。ユキは鬼海が開きかけた口を閉じたことに気づいていないようだった。  ……ユキさん。  龍之介がそっと辺りを見回し、目に焼き付けたそれを自身の中の景色として収める。   「遠く離れたところで、バトミントンをしている人がいます」 「性別や年齢は?」 「二人とも楽しそう。学校のジャージ姿だから女子高生かな。バトミントン部の子かしら。部活が始まる前に公園でふざけてるみたい。そういえばバトミントンって風が入らないように体育館を閉め切ってやるんですよね。友達がバトミントン部だったから、なんだか懐かしい。まだ来ない子を待っているのかな」  二人の女子高生。  高校の制服を着た二人の女の子が、ラクロスのスティックを振っている。ボールは、ない。誰かのフォームを真似している様子で、途切れ途切れに高い声で楽しそうな笑い声が、ここまで届く。  部活に向かう途中で、まだ来ない友達を待っているようだった。  そう。龍之介の、鬼海の、倉部の目に映る二人の高校生は、ジャージ姿でなければバトミントンをしているのでもない。  ユキが見ているのは『並行世界』。 「芝生の上に仰向けに寝転び、腕を目の上に乗せているスーツ姿の男性が一人。具合が悪い訳じゃないと良いんですが……あ、違うみたいですね。手にしていた携帯スマホに目をやって、また同じ姿勢。仕事のサボりかな。芝がつくからってジャケットは脱いでお腹の上にあるけど、ズボンは気にしないのかしら?」  スーツ姿の男性は、ユキさんの言うようにこちらの芝生広場にも同じ様子でいる。  鬼海が先程とは打って変わった様子で、肩を落とし、ユキに気づかれないよう龍之介に視線を寄越した。  その間にも、ユキは自分の目に見えるものを次々と言葉にしてゆく。  それは半分ほど同じ、といった具合だった。  やがてユキは黙って、冷めてしまったコーヒーカップに口をつける。  しばらく四人は、それぞれの目に映る景色を見ているようだった。  静かな時が流れた。 「もしかしたら……考え方が違うのかもしれませんが、入り口が見えるようになった頃からずっと、ユキさんはこちらとあちらの間に存在しているんじゃないでしょうか? だって、最初から入り口が見えていたわけじゃないんですよね?」  口火を切ったのは、龍之介だった。 「龍之介が言った『間』と言うのは……あわい、ということか? それとも……そうだな。あるいはこの世界と並行世界の重なっている部分にユキはいるのかもしれないな」  ユキは、ゆっくりと倉部と龍之介に視線を動かして言った。 「そう……。最初は、入り口なんて見えなかったわ。じゃあ……つまり?」  
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