最終章 Case 4

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Case 4 兄と弟   『入り口』が見えるようになったのは、いつからだったのだろう。  こちらの世界で、いつ自分とばったり出会うのかと恐れていた頃は、見えなかった。  親友の瑞紀に打ち明け受け入れて貰えたあの日? それとも勤めていた会社を辞める決意をした頃に?   ……そう。この世界の『わたし』が積み上げてきたものをひっくり返したとき。この世界の『わたし』の存在を消したころから、『入り口』が目に留まるようになった。  つまりそれは多分、わたしが何処の世界にも属さない存在になってしまったという証なの?   「ユキさんは、ちゃんとここに存在してます。このままここにいるユキさんで良いんです。大丈夫ですよ」  まるでユキの心の声が聞こえていたかのように、きっぱりと鬼海が言った。 「だって、何が見えているかなんて、こうやって確かめなければ気づかなかったでしょ? つまり、これからだって気づかなかった可能性もあるんです。今になってそれに気づいたからって、何も変わりません。ね? そうじゃないですか」  ユキに向かって言うのではなく、まるでそう自分に言い聞かせているような鬼海の言葉はあまりにも必死で、ユキは思わず笑みを浮かべてしまう。 「……そうね。今まで全然、気づいてなかったなぁ」  でしょう? と、鬼海が満足そうに頷くのが見えた。  しかし笑みを引っ込めたユキは真顔のまま誰の顔を見ようともせずに、前を向いて話し続けた。 「だけどね? 入り口が見える理由を考えるとそれは多分、わたしが何処の世界にも属さない存在になってしまったから、なんじゃないかなって、今話していて思ったの」 「そうですか……? ぼくの考えは、違います。ユキさんの見える世界は、ぼく達のいる世界と違う世界を重ねて見ている。つまり、ユキさんは何処にも属していないんじゃなくて、どちらの世界とも同時に属しているからこそ重なっている『入り口』が見えるんじゃないでしょうか? そうやって世界との折り合いをつけたんだと思うんです」 「……並行世界との共生か」  龍之介と倉部の言葉に、ユキは驚いて振り返る。 「並行世界は、迷い込んだと知りながらも頑なに元の世界に還ろうともせずに、あまつさえ『この世界のユキ』という存在を上書きしてしまったユキと、相互関係を結ぶことにしたのかもしれないな。ユキに『入り口』を見せることで、迷い込んでしまった人を元に戻す手伝いをさせているのかも」  世界の方が音を上げたんだ、と可笑しそうに倉部が笑う。  思い切った我慢比べだったな。  鬼海が立ち上がり、脚についた芝を叩く。 「もう、それで良いじゃないですか。我慢比べに勝ったんですよ。ユキさんが見ているものは、ユキさんにしか見えない。自分たちも、見ているものは皆それぞれです。ユキさんは、誰にも見えない並行世界の『入り口』が見える。それで助けられる人がいる。自分たちも、それを手伝う。それが全てです」  ユキに向かって、手を差し伸べながらそう言った。  大人しくその差し出された手を握りユキが立ち上がるのを、倉部と龍之介が優しく見守っている。 「そうね。すみません。わたしったら……それで良いのかも。そうですよね。さあ、気を取り直して『入り口』を、探しましょう」 「いや。探せるのはユキ、お前だけだから」 「まったチーフはー。どうして、そうちらっと無意識に意地悪な……。龍之介くんには優しいのに、自分やユキさんには……ちぇっ。大人げないですよねー?」  鬼海の言葉に、それぞれが微笑みを浮かべて顔を見合わせたその時、春の一陣の風がどこからか沢山の小さな白い花びらを運んで来た。  うわっ。  その風に向かってある者は目を瞑り、ある者は目を細めた次の瞬間、ユキが呟いたひと言。  誰もがそれを聞き漏らすことはなかった。 「……あ、見つけた……入り口」  風が去った後、すぐさま龍之介はユキの視線の先を追う。それに続く倉部と鬼海。  あれは……フクロウの像? 「あの向こう。背の高い男の人が歩いてますよね? その先にフクロウの像が見えているのは、わたしだけじゃないですよね? あの像と重なるように『入り口』が見えます。……だけど」 「だけど?」 「あの『入り口』が、以前から存在するのかこれからも存在し続けるものか、までは分かりません。ただ、ここからも濃くくっきりと穴が覗いて見えるから……すぐには消えることも無さそうですけれど」  ユキの言ったフクロウの像。  その辺りには、人影すら見えなかった。  背の高い男の人……? 「……なんだかあの人、雰囲気が龍之介くんに……似てる? え? あれ? もしかして、わたししか見えてない?」 「フクロウの像は見える。とりあえず近くまで行こう」  倉部にそう言われるまでもなく、すでに像に向かって歩き出していた龍之介は走り出しそうになる自身をぐっと抑えていた。  まさか……。  まさか。  でも……だけど……もしかしたら……?   「……ユキ?」 「いま、すれ違いました。龍之介くんに……似てる……と、思う」  すれ違った?  倉部、鬼海、龍之介の三人は、辺りを見回す。ユキ以外、誰の目にもその男性は見えていなかった。 「向こうに歩いて行ってます」  ユキが細っそりとした白い指先を向けたのは、図書館のある方向だ。 「……とりあえずその『入り口』だ。 龍之介、ユキが見えるものを見に、行ってみたくないか?」  その倉部の誘いを怖い、と思った。  今ここに兄が居るかもしれないのも、その人が兄ではないのかもしれないのも。  ……怖い。  それでもその恐怖は、渇望するほどの好奇心には勝てない。 「……行きたい、です。例えその人が兄ではないのだとしても、構いません。今すぐに……今すぐに追いかけて、この目で確かめてみたいです」  ほんの一縷の望みをかけて。 「よし。じゃあ行くか」  龍之介は、倉部を見る。  鬼海が優しく頷く。  ユキの微笑んだ顔。  後はもう脇目も振らずにフクロウの像に、向かって歩いた。  そうして、ユキを信じている筈なのに、どうしても無様にぶつかるような気がして、その瞬間は思わず目を閉じてしまう自分を叱咤しながら『入り口』を潜る。  龍之介が目を開けた時そこに見た景色は、先程までいた世界とあまり変わらない。  だがその時、龍之介の目に飛び込んできたものが、元の世界とは明らかに違うのだと、一瞬で脳が認識する。  それは、少し先に見える誰かの背中。  龍之介がどうやってその人を振り向かせようかと考えた時だ。  その人物はまるで誰かに呼び止められたかのようにふと立ち止まり、そして振り返る。  燦く陽射しの中、その人の顔が霞んで良く見えないのは春のせいでも、ましてや離れているせいでもなく、龍之介の目に浮かぶ涙のせいだと気づくのにそう時間は掛からなかった。  龍之介の耳の奥に、幼かったあの日の笑い声が蘇る。  ……ああ、何か。  何か、言わなくちゃ。  いつの間にか龍之介の肩には優しく置かれた手。そこにゆっくりと力が込められるのを感じる。 「……龍之介……?」  何度か瞬きを繰り返す龍之介の耳に、隣に寄り添うように立つ倉部が名前を呼ぶその声が、ここではない何処か遠くから聞こえたような気がしたのだった。            
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