シャンパン・オリーブ

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カラン、と音を立てて氷が傾く。 形を変えて水と化し、液体を薄めていく光景。 グラスは瑞々しく汗をかき、時間の経過を思わせた。もう20分、待たされている。 今日こそ、話がある。 「こそ」の部分を神原が強調したのは、先週も先々週も大切な話題をはぐらかしていたからだ。 私も彼も同じ話題を用意しているのに、いつも遠回りしてはゴールに辿り着けない。結果、お互い解散する頃には合流した時に比べてドッと疲れた表情になっている。いや、会うたびに疲れるのはもう随分前からだ。話の核心に近づいては遠ざかる作業は思いのほか体力を要する。それなのに別れ話ができないでいるのは、会えば居心地がいいからに他ならなかった。 「ねえ、もう7年になるのよ」 どちらかにしてちょうだい。名字をくれるのか、去っていくのか。 ここまできたら恨まないから、と私はオリーブをつまみながら言う。脳は主語を理解しないから悪口を言うと自分がダメージを負う、とは言うけれど、悪口を通り過ぎて同情にまで変わっているのだ。脳が混乱する前に、身体が老いていく。せめてこの艶やかな黒い実は私を健康にしてほしい、確か栄養豊富だったはずだ。 「オリーブって、キリスト教式のウェディングにも使われるらしいよ」 神原はその場で検索し、ホラ、と画面を差し出す。安らぎ、幸せ、長寿。今はそんな話をしていない。この人はすぐにはぐらかす。私だって安らぎたいし、幸せになりたいし、長生きしたい。この実を食べて叶うのならばいくらでも食べてやろう。 「あなたが私にオリーブを食べさせたいのならそうすればいいけど、私、いま一人で食べてるのよ」 目の前で見ているでしょう。幸せになりたくて貪っているように見えているのならばとんだおめでたいやつだ。重い話題を持て余している口を励ますために食べているにすぎない。はやく、はやくこの先の結論について話し合いたい。そう思うのに、手は皿と口元を大人しく往復することしかできず、唇はその動きに素直に従い、塩辛い実を頬張ることしか出来なかった。酒で喉を潤したい塩分濃度。でも酔って話したら後悔する。大人しくジンジャーエールで流し込む。すっかり弱くなった炭酸は、食道を小さく攻撃した。違う話題を用意しているのでしょう、飲み込んでばかりじゃ先にすすまないよ、と。 「私ばっかり覚悟してて、ばかみたい」 わざと音を立てて席を立つ。オーク材の椅子は思ったより重たかった。ゆうこ、と引き止めるような神原の声色は、少し寂しそうで、それでいて安堵している気がした。今日もゴールしなかった、それがありがたい、というように。 それがつい先週の話。私はいつまで走ればいいのだろう。 「おまたせ」 結局、彼は待ち合わせより35分遅れてやってきた。ほんのり汗ばんで見えるところ、きっと急いでやって来たんだろうとは思う。しかしグラスがかいている汗の方がよっぽど多かった。長居する気はなかったので、意地でも2杯目を頼まなかったのだ。 「もう、ずっと待たされっぱなしよ」 7年。それはお互いの生活が変わり、変化の中で確立されていくには事足りる期間だった。大学生の頃陽気に笑う彼の髪色は金に近い茶色だった。今ではすっかり黒々としている。かくいう私も、この頃はずっとダークブラウンにしか染めていない。自分を引き立たせる色というのは年齢に合わせて定着していく気がする。私は、今、何色だろうか。 「今日は、ちゃんと話があるんだ」 「私は、先週も先々週も、ちゃんと話があったわ。そして先週も先々週も、神原は話さなかった」 彼が眉間に寄せた皺は、すぐに消えていった。相変わらず素直な奴。優しいばかりに、人を傷つける言葉を言えずに自分で溜め込んでしまう奴。知っている、7年間ずっと見てきたのだ。そして、そんな彼が好きだったのだ。脳がダメージを負うような言葉を選ばない神原を、ずっと好きでいたのだ。 ああ、ダメだ、会うとやっぱり絆されてしまう。意志の弱い私。結局私から言えていない決定的な言葉を、彼に言わせようとしている。臆病者の私。 「ずっと、辛い思いをさせてごめん。今日は……ごめん、さすがに一杯飲ませてくれ、汗だくで」 席に着いた神原は私から目を逸らし、店員にいくつか注文していた。私の分まで頼まれても、すぐに帰ろうと思っていた。涙なんか流してたまるか。靴の中でつま先にグッと力を入れる。 「何から話そうかな……いつもゆうこにばかり話させているから」 「前置きなんていいわ。私ばかり話してるのは、出会った頃からずっとじゃない」 私の口はとてもお喋りで、彼の耳はとても聞き上手だった。私が並べた嫌味ですら、彼は受け入れたり受け流したり、とても器用だった。 これから私は、溢れ出る言葉を誰に聞いて貰えばいいのだろう。一人で歩いていくには、この靴ではヒールが高すぎる。 「とりあえず、乾杯しようか」 「………何によ」 「俺の夢に」 「………何それ」 こうやってまたはぐらかす。少しずつ、少しずつしかこの人は前に進めないのだ。辛抱強く待たなければならない。腹の辺りがジリジリと熱くなる。 運ばれて来たジンジャーエールはシャンパンのように輝いていた。乾杯という言葉に店員が反応したのだろうか、華奢なラインが美しいグラスだった。私は2杯目のこのグラスを泣かせてたまるかと思った。 「ずっと決めてたのに、なかなかはっきり言えなくて。とにかく、言いたいことはずっとひとつなんだ」 強い炭酸を一気に飲み込んだ神原は少しむせた。食道を奮い立たせているのだろうか、彼の口はそれほどまでに重たいのだろうか。 息を整えた彼はおずおずと、しかししっかり私の手を握った。夢を語るのに他人の力が必要なのかしら。それとも、今後はいい友人でいようと言いたいのかしら。私は動じない用意をする他なかった。いいわ、お互い"良い友人"として、これからもよろしく。 さっぱりと別れてこそ大人の女性というものだ、7年で成長したところを見せるほかない。泣いてなんかいられない。私は一人でも走れる。 私の心情など知らないであろう彼は、しっとりと汗ばんでいる手に力を入れた。普段穏やかな彼の口が、見たことのない大きさで動く。 「俺の夢。ゆうこの名字を、神原にする」 晴れやかな音を、耳は一瞬捉えることができなかった。夢というより決意表明に近い響きは、覚悟していた言葉と違いすぎて、情けない表情にみるみる変わってしまう。こんな弱々しい顔なんて見せるつもりはなかったのに。嬉しいのか悔しいのかわからなかった。 オリーブです、と注文を運んできた店員を見ると、白とピンクの花束を抱えていた。 これを選んでたら遅くなっちゃってと笑う彼のせいで瞳が潤む。私らしくない、可愛らしいゴールテープの色。 目の汗を子どものように拭いながら、手元のオリーブを見て思う。安らぎ、幸せ、長寿。彼の黒々とした髪に白が混じるのを、いつか隣で見られるだろうか。 「ゆうこ、ずっと勘違いしてるんだもん。俺は、ずっと決めてたんだよ」 私の前の皿からオリーブをつまむ彼は、いつだって私より先を歩いている。これからは手を繋いで歩いていけるだろうか、こんなにも歩幅の違う私たち。 キリスト教式のウエディングドレスは、私に似合う白い色だろうか。 オリーブは店内の照明に艶々と輝き、グラスの中で炭酸がしゅわしゅわと拍手をした。
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