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六月に入り、雇い主のいなくなった花京院家を尚人は去った。住み込みで働いていたので、自分の家具はない。数枚の着替えとわずかな生活用品を鞄に詰めて、近くのマンスリーマンションをひとまず借りた。花京院家で仕えていた時の給与はほとんど使っていない。急いで働き口を探さなくても当面は暮らしていけると、何も考えずに尚人は外を歩いていた。
花京院家で過ごした日は、尚人の心に当たり前に住み着いてしまった。だから今はこの先のことなど何も考えたくないのが本音である。花京院家での日々の余韻にもう少し浸っていたかった。
今は梅雨の時期であるが、天気予報では「梅雨の中休み」と言っており、ジメジメとした湿気交じりの晴れ間が覗いていた。
時刻は午後二時前。遅くなったが昼飯でも食べようかと考えていると、十メートル程先から子供の集団が楽しそうに走ってくるのが見えた。背丈から見ると小学校低学年のようだ。集団の一人が尚人に向って手を振っている。菫だった。
「こんにちは!」笑顔でぺこりと頭を下げる。
尚人も笑顔で「こんにちは。今帰り?」と聞いた。
「はい」と言うと、周りの子供達が「菫ちゃん、先に行くね」「また明日鬼ごっこしようねー」と散り散りになって走っていった。きちんと友達ができるか、施設育ちという理由だけでつらい目に遭わないかと尚人は勝手に心配していたが、余計なお世話だったようだ。菫は新しい世界でも自分のコミュニティをきちんと形成していた。親がいないからと差別されるような環境ではないようで一安心だ。
「タイガーマスクなんでしょ? 尚人お兄ちゃんって」
不意に菫が尚人に聞いてきた。澄んだ大きな瞳でじっと尚人を見つめる。その表情が母親の椿と重なる。
「だって、お兄ちゃんとお姉ちゃんが言ってたよ。尚人お兄ちゃんはタイガーマスクで、皆がちゃんとご飯を食べて学校に行けるのは尚人お兄ちゃんがタイガーマスクだからって」菫が言うお兄ちゃんやお姉ちゃんとは一緒に施設で暮らす年上の児童を指すのだろう。その年上の児童が菫にそう教えてくれたと言う。
違う。俺はタイガーマスクなんかじゃない。本当のタイガーマスクは……。
言葉を飲み込んで尚人は手のひらサイズの紙を取り出した。
「これをね、菫ちゃんに渡したかったんだ」尚人は心の声を打ち消すように、形見としてもらった椿の写真を差し出した。いつ菫に会えるか分からないので、毎日ポケットに忍ばせていた。尚人の手から小さな菫の手に渡った。菫が写真を食い入るように見て首を傾げる。
「だれですか? このお姉さん。すごいきれい」初めて母の顔を見た菫の第一声。椿にも聞かせてやりたい。空の上で聞いているだろうか。
「この人はね……菫ちゃんのママだよ」尚人は涙を堪えて菫に告げた。
最期まで穏やかだった椿の顔が尚人の脳裏に蘇った。命の花が散る瞬間まで、屋敷の主であり、それ以上に菫を愛する母だった。
「……ママ?」
「そうだよ。残念だけど、菫ちゃんはもうママに会うことはできない。今の施設が君の家であり、君の家族だから」亡くなった事実は言わない。
菫は尚人の話を聞きながら写真を見つめた。今菫は何を思っているのだろう。椿の面影が残るその顔で。
「だけどね、これだけは忘れないでほしい。菫ちゃんのママは……君を離れた所からとても大切に想っていた。君が幸せであるようにいつも願っていた」全部を過去形で説明しなければいけないことが尚人の胸を締め付ける。
だけど、この言葉で幼い菫の心に何かを刻むことができれば。
「僕がタイガーマスクでいられたのは……君のママがいたからなんだ。その日楽しかったことも、悲しかったことも全部写真のママに話してあげてほしい」
小学一年生の菫にはやはり難しかっただろうか。何も反応がない。ただ、尚人から渡された椿の写真をじっと見つけるだけである。
「うん。ママの写真、大切にする。ありがとうございます」菫はぺこりと頭を下げて尚人の元を立ち去って行った。パタパタと小動物のような忙しない足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると尚人は道の端にある電柱に体を預けて静かに泣いた。目頭から、目尻からも零れて止まらない。
これで良かったのだろうか。椿の意思に背いた尚人は間違っているのかもしれない。ルリが知ったら「余計なことを」と怒るだろう。
だけど尚人は、菫に椿の存在を知ってほしかった。知らない方がいい幸せは確かにあるだろう。しかし菫の場合はどうだろうか。このまま何も知らずにいて本当に幸せなのだろうか。
大きくなり、菫の中で「私は親に捨てられた」と哀しい思いを抱えてほしくない。椿はあんなにも菫のことを想っていたのに。そして人生で一度だけ本気の恋をした椿が報われる方法はこれしかないと尚人は思った。椿は菫を捨ててなんかいないという事実を伝えたかった。菫は椿と愛する人との間に生まれた子だと伝えたかった。ちゃんと愛されていたと伝えたかった。花京院家を出た尚人がもう孤児院を訪れることはない。椿の遺産の七割を寄付したので、経営は当分持ち堪えることができるだろう。偽りのタイガーマスクはお役御免となった。偽りのタイガーマスクはどこへ行こう。マスクを外した尚人の行き場所はどこにあるのか。
「……そうか、次は偽りではなく本物のタイガーマスクになればいいんだ」
尚人の頭に一つの考えが閃いた。花京院家に仕えていた頃の給与はほとんど手付かずで残っている。
五年以上通帳に放置したままだったので、一千万円以上になっているだろうか。椿のように大金を継続して寄付するのは無理でも、できる範囲で少しずつであれば今の尚人でもできる。
菫のいる孤児院の「本当のタイガーマスク」は椿だ。あそこは椿の想いが詰まっているから尚人が今更割り込むのは忍びない。
そうと決まれば仕事を見つけなければ。タイガーマスクが無職だなんて何だかカッコ悪いな。新たな土地に引っ越して、尚人の想いに耳を傾けてくれる孤児院を探してみよう。
尚人は涙を拭いて、湿った空気を切り裂くように走り出した。
完
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