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「……そういえばまだ名前を聞いていなかった」
「あ、伊達山尚人です。あのタイガーマスクの伊達直人と似てるってよく笑われます」
タイガーマスクといえば、覆面レスラーが生まれ育った孤児院に人知れず寄付を送り続ける話で、その裏には色々複雑な事情も絡みつつ、最後は悲しい終わりを迎えるという子供向けのアニメである。尚人の世代というより、もはや親世代のアニメで尚人はこっちの話よりも、『現実に存在するタイガーマスク』の方が世代的に近かった。
現実に存在するタイガーマスクは、春になると施設にランドセルを寄付するというもので、桜の開花前にはちょっとしたニュースにもなる。本人は本当の名を明かさず「伊達直人」と名乗り、欠かさず寄付を続けている。世の中には懐の広い人間もいるものだ、世の中捨てたもんじゃないと、日本中が温かい気持ちに包まれる。尚人はそんなタイガーマスクの伊達直人と名前が似ているのが密かな自慢だった。
自己紹介の鉄板ネタでもあり、合コンでは女性から笑いを取るのにも最適だった。だから目の前にいる面接官に対してもウケ狙いで使ったつもりだったのだが、笑うどころか左の眉がわずかにピクリと吊り上がった。
しまった、怒らせた。面接にふざけたのはやはり逆効果だったか。尚人はつい背中を丸めて委縮した。ところが女の口から出たのは、予想の斜め上をいく言葉だった。
「あなたを採用する。奥様の部屋に行くわよ」
尚人は何のことだか分からなかった。渾身のネタが実は女にウケたのか、それとも別の理由があるのか、ともあれ、尚人は今日から住み込みで働くことになった。
女は自らを猪戸ルリと名乗り、ここで住み込みで働く女中だと言った。奥様の所に案内するから付いてきてと言われて、迷路のような屋敷を右に左にと曲がり、辿り着いた部屋はこれまでの雰囲気とは違った高級さを携えていた。ルリが「ここが奥様の部屋。仕事内容は奥様から聞いて」と言い、水連の間とは比べ物にならない重厚感のある襖をスッと開けて、尚人を部屋に入るよう促した。
「まぁ、やっと決まったのね。良かった……」
尚人が部屋に入ると鋭さを携えたルリとは違った、細くてしなやかな声がした。やっと決まったのねとは、働き手のことを言っているらしい。尚人は頭を下げて自己紹介をした。名前を告げると奥様と呼ばれる女性は「あら」と嬉しそうな声を出した。名前を聞いて驚く人はいるが、ルリや奥様のような反応は初めてだった。ルリは怒らせたかと思いきや採用の決め手になったようだったし、目の前にいる奥様に至っては、まるで運命の人に出逢えたかのような弾んだ声を出した。
奥様の部屋は、三十畳を悠に超える広い和室で、陽当たりの良さそうな窓際に木製のローベッドが置かれていた。そこに上半身を起こした状態で尚人を見つめる女性、この人が奥様であった。名前を「花京院椿【かきょういんつばき】」と名乗った。洒落た名前だったが、屋敷の雰囲気と容姿にはまっている。端正な顔立ちからは、資産家独特の上品さがにじみ出ていた。尚人が驚かされたのは椿の部屋や見た目にとどまらず、その圧倒的な若さにも言葉を失うことになる。二十五歳の尚人よりも遥かに年下だった。声に落ち着きはあるものの明らかにまだ二十歳にも満たない十代だということが発覚した。しかし、年下であってもこの女性が尚人の雇い主となる。尚人は恭しく頭を下げて、仕事内容を聞いた。
「仕事内容はね、屋敷から歩いて三十分の場所にある孤児院に月一度様子を見に行くことよ。私からの寄付金を必ずお渡ししてね。そして子供たちと一時間だけ遊んで、全部の子供たちの様子を帰って私に聞かせて頂戴。お仕事内容はそれだけよ。あ、三月だけは進級する子供にランドセルの寄付もお願いするわ。どう? 引き受けてくれるかしら?」
月に一度近所の孤児院に出向き、寄付金を渡して、子供と一時間だけ遊ぶ。年に一度の三月だけはランドセルを寄付しに行く。尚人は仕事内容を頭の中で復唱した。それだけで月収三十万、しかも住居・食事、昼寝も付いてくるとは。怪しげな予感は完全に拭いきれないものの、目の前の家主がどうしても悪い人には見えなかった。
尚人は二つ返事で「やります。任せてください」と言った。
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