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一週間前、椿は「今年のランドセルはもう用意したわ。だから来月、しっかり送り届けてね」と言っていた。尚人が来月孤児院に行くのを楽しみにしていた矢先、そんな哀しい話を聞くことになるなんて。信じたくない、尚人はまずそう思った。椿の妹である菫、なぜ離れて暮らしているかは、余所者の尚人には分からない。だけど花京院家に仕えて五年、椿が菫を強く想っているのは分かっていた。椿の優しい笑顔と声で、いつか菫の名前を呼べる日が来ることを、尚人は密かに願っていた。
最初は軽い気持ちで始めたアルバイトだった。月収三十万円という文言にだけ惹かれて、不純な動機だったと言われれば尚人も反論はしない。だけど、五年もこの仕事をしていると、仕事というより使命感のようなものをいつしか抱くようになっていた。椿と菫の姉妹を結ぶ懸け橋に自分がなっていることに誇らしさを感じていた。尚人は瞳を閉じて想像する。花京院の屋敷で椿と菫が再開する姿を。
菫は椿に「お腹が空いた」「遊ぼうよ」「眠いな」と甘える。
椿は菫に「おやつにしましょうか」「何して遊ぶの」「もう寝なさい」と世話を焼くに違いない。
それなのに花京院家は短命だという、まさかの事実を知ってしまった。急いで屋敷に戻る。屋敷にはいつも通り、平穏な時間が流れていた。椿はルリと一緒に部屋にいた。ルリが椿の長く美しい髪を甲斐甲斐しく梳かしている。尚人が勢いよく部屋に入ってきたので、椿は驚いた様子を見せた。初めて顔を合わせた日から五年。すっかり美しい大人の女性へと成長していた。ルリは驚く様子もなく、ガラスのように澄んだ鋭い瞳を尚人に向けていた。急いで帰ってきたので、呼吸が乱れて上手に話すことができない。膝に手を当てて呼吸を整える。数分後、尚人が発した言葉は「どうして」だった。
「そんなに慌ててどうしたの?」と椿が心配そうに尋ねる。
「……奥様が、椿さんが短命だって……近所の人が話しているのを聞いてしまいました」走ってきたため息が荒い。途切れ途切れに近所で遭ったことを伝えた。
椿の美しい瞳が揺れる。明らかな動揺だった。尚人は密かに椿から否定されることを願ったが、その動揺する様子は尚人の言葉を肯定していた。椿の髪を梳くのに背後に座っていたルリは顔色を変えず、すっと立ち上がった。
「椿さん! 答えてくれよ! どうして、短命だって分かってて菫ちゃんの傍にいてやらないんですか!」
「……菫のこと、あなた知っていたの?」
「いや、知っていたというより、俺が勝手に気付いただけです。だって奥様の……椿さんの様子見てたら分かるから……。菫ちゃんは笑うと椿さんによく似てます」
「……そう、何もかも知っていたのね……あの子が、菫が私の『娘』だって……」椿の言葉に尚人は瞳を見開いた。
「え……娘じゃなくて妹ですよね? だって初めてここに来た時、奥様はまだ十代でしたよね……」あらぬ方向の展開に尚人の心は迷子になる。
「ええ、菫は私が十五の時に生んだ子よ。あなたがここに来た時の私は十六歳、菫は一歳だったわ」何ということか。菫は椿の妹だと思っていたが、娘だったとは。しかし娘であれば尚更だ。
「でも、娘でも妹でも、菫ちゃんは奥様にとって大事な存在でしょう? それなのに」
「中途半端に」ルリが唐突に口を挟んできた。尚人がルリを見る。いつも無表情なルリが怒っている。
「短命である奥様が中途半端に愛情を注いだところで、奥様の余命はもう残り少ない」
「だから……それでも一緒にいるのが親子ってもので……」
「あなたに何が分かる」ルリは尚人を突き放すように言った。部外者は黙ってろと、そんな圧が尚人に伝わってきた。実際にルリも「部外者が口を出すな」と告げた。
確かに部外者かもしれない。何の事情も知らない尚人が首を突っ込むのは余計なお世話かもしれない。だけど、この五年間尚人は椿と菫の橋渡しをしてきたのだ。部外者であって部外者ではない。お願いだから突き放さないでほしい。二人の間にいたからこその想いだった。しかし、ルリはそんな尚人の想いをナイフのように深く切り裂いた。鋭い切っ先で心臓の真ん中を抉られる。
「花京院家のことを詮索されるのを奥様が嫌がっていたから、県外からの転出者を募集していたのに。まぁいい、この際だから教えよう。花京院家は代々短命だ。奥様の父上もご病気で亡くなられ、嫁いだ母上も後を追うように自死された」
「そんな……そんなのって遺された椿さんが……」尚人が悲しそうに顔を歪ませた。今尚人の目の前にいる椿は、どのような思いで両親の死と向き合ったのだろう。自分の運命を呪っただろうか。それとも静かにそれを受け入れたのか。
「菫様も同じ」ルリが淡々と続けた。
「一緒にいても辛い思いを背負うのは菫様一人なのよ。そんな哀しい運命を背負わないようにと奥様がご自分で決められたことなの。菫様には自分のような母親がいなくても強く生きてほしいと」
「あ……でも父親は⁈ そうだ、父親は、花京院家の血筋じゃないんですよね? それなら父親と一緒に暮らすことだって……」尚人の言葉に椿がゆっくりと首を振った。笑ってはいるが、その瞳はどこか哀しい。いつか見た表情と同じだった。頼むからそんな顔して無理に笑わないでほしい。尚人はそう思っていた。
「父親は……菫の存在自体知らないの」その言葉を聞いて尚人は頭がカッとなった。何と無責任な父親なのか。しかし尚人が言うより先に、椿はこれでいいのと呟いた。
「だって、好きだったから。本気で。このまま死んでもいいと思えるくらい、本気で恋してたの」
尚人には理解できなかった。十五歳なんてまだ子供ではないか。親に守られて、友人と騒いで時には喧嘩して、恋に恋して一番楽しい時ではないのか。椿のように死んでもいい恋なんて、そんな哀しいことがあってはならない。尚人はいつの間にか泣いていた。涙が高級な絨毯の上に次々と弾ける。
五年しか仕えていないが、椿と菫はいつか一緒にこの屋敷で暮らせるものだと夢見ていた。そこの場面に自分も立ち会えたらどんなに幸せだろうと。それなのに椿は愛する人と繋がることはできても、永遠を誓うことは叶わなかった。愛娘である菫も、椿という優しい母の存在も知らずに間もなく小学生になろうとしている。何の不自由もない屋敷は恵まれているようだが、椿にとっては自分の死に場所でしかない。椿はこんな広い屋敷で息を引き取るのか。菫の幸せを静かに願いながら。
「奥様の幸せは奥様が自分でお決めになる。あなたはもう黙って」ルリの冷たい声が部屋に響いた。せめて椿から何か優しい言葉が掛けられることを尚人は期待したが、椿が言葉を発することはなかった。部屋にある呼び鈴を押し、別の使用人が椿の部屋に顔を出す。
「尚人君、ちょっと体調悪いみたい。部屋まで送ってあげてくださる?」と尚人が望んでもいない言葉が部屋に響く。尚人は使用人の助けを借りずに自力で部屋に戻った。
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