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三月。今日は尚人が孤児院に行く日である。毎月の寄付金と子供たちへのランドセル。今年は菫を含めて五名の子供が小学生になる。尚人は花京院家に停めてある車にランドセルを積んで孤児院に出向いた。
初めて会った時はあんなに小さかった菫が「ありがとうございます」とはっきり言葉にするようになっている。渡されたランドセルを嬉しそうに受け取った。箱を開けて新品のランドセルに腕を通し、尚人の前でくるりと一回転した。その様子に自然と頬が緩む。それと同時に切ない感情も込み上げる。
本当ならお礼を言われるのは自分ではないのに。自分は偽りのタイガーマスクだ。本当のタイガーマスクは君のお母さんなんだよと瞳を見て言いたかった。
少子化の影響もあってか、尚人が孤児院に通うようになった辺りから子供の数は減り、孤児院の経営もそろそろ危ないかもしれないということを施設長から聞かされた。
「でも、あなたからの寄付のお陰でここまで続けてこられました」と恭しく頭を尚人に下げる。
「いや……やめてください。こんな自分には頭を下げられる資格なんてないんですから」謙遜ではなく事実だった。自分は偽りのタイガーマスクだから。
「いえ、本当に感謝しています。子供の命を救ったのは間違いなく伊達山様です」施設長は真実を知らない。このお金は花京院の家主である椿から渡されていることを。知らないとはいえ苛立つ気持ちが増す。
「……違うんです!」その言葉は椿に贈られるものだ。尚人ではない。つい言葉が荒くなる。大きな声を出したせいで近くにいた子供が驚き、尚人を無遠慮に見つめる。先程まで近くにいた菫は、ランドセルを背負ったままどこかに行ってしまったようでその場にはいなかった。それが唯一の救いだった。今ここに菫がいたら何を口走ってしまうか分からない。
施設長は困ったように笑いながら、せっかくなので皆で写真を撮りましょうと言った。尚人と孤児院の子供達と笑顔で収まった。完成した写真はもちろん椿に渡した。
「大きくなったわね」と、写真を見た椿が嬉しそうに瞳を細めた。ここ最近は食が細くなり、日に日に体力が薄れていくのが目に見えて分かった。それでも、菫の顔を写真だけでも見られたことに満足しているのか、椿はとても幸せそうだった。今、椿を生かしているのは間違いなく菫の存在だろう。皮肉なもので、椿が元気に振る舞う程、椿の命の火が残り少ないことを突き付けられる。ルリからは覚悟しなければいけないと静かに告げられた。無表情の中の瞳がわずかに揺れていた。
桜もすっかり散り、爽やかな新緑の時期となった五月に入ってすぐのこと、椿は自室で息を引き取った。苦しむことなく眠っているかのようだったので、尚人は最初信じられなかった。最期はルリが椿の手を握り、尚人はルリの後ろで静かに見送った。
結局、尚人が夢見ていた椿と菫の再開は果たせないまま。最期、心の中にいたのは菫だったろうか。どうかそうであってほしい。安らかに。尚人は手のひらを合わせて俯いた。その時に涙が一雫、高級な絨毯に音もなく弾けた。
椿の遺言には財産の七割を孤児院に寄付し、残りはルリ達使用人で分配するようにとあった。施設に寄付する分は菫が高校を卒業するまでに十分過ぎる金額だった。使用人には一人当たり数百万円が分配されることになり、尚人もその内の一人だとルリから受け取るよう命じられた。尚人は首を振って受け取ることを放棄した。代わりに椿が元気だった頃の写真を形見に欲しいと言うと、ルリが三年ほど前の写真を数枚渡してくれた。肌に艶があり、笑顔も美しい写真だった。
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