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◇
「それでね、言ってやったの。『もうタッくんとは呼ばない。そもそもあんたは私の弟みたいなもんなんだから、あんたで十分よね。これからは、あんたって呼ぶ』って」
「うわぁ、彼女も教室にいたんだろ?」
「いた。机に突っ伏して、わぁって泣き出したから、ざまみろって思っちゃった。胸がスッとした」
「ははは。嫌な女だな」
畳に胡座をかき、膝に乗せた猫の爪を切りながら、先生が全然嫌そうじゃなく笑う。私はだらしなく寝転がって先生の膝に無理矢理頭を乗せ、その快適な場所を猫と取り合った。
「毛だらけになるぞ」
「毛だらけになりたいの。健康って素敵ね」
そうだ。別に、前と同じに拘る必要なんて無い。変えてやれば良いのだ。何だって。どうせ、新しく覚えていくことばかりだ。
猫との闘いに大人気なく勝利し、膝枕に満足して先生の顎を見上げると、「恥ずかしいから見るな」と、片手で目に蓋をされた。大きくて、少しカサついた手。犬の毛や猫の爪は甲斐甲斐しく整えてやるのに、自分の世話は全然しないのだから。今度、ハンドクリーム、無香料のやつ買ってきて擦り込んであげよう。そんなことを考えているとお腹の中がムズムズと痒くなってきて、やっぱり私は兄様を経由しなくても先生を好きだなと思ったりする。だけれど、良いのだ。そんなことはどっちでも。
今どうにかしなくちゃいけないのは、私の中に降り積もる、お腹の奥のムズムズを目の前のこの人と分け合いたい、という単純な欲求についてだけ。
「どうした?」
目隠ししていた手が不意に除けられる。黙り込んだ私を覗き込むのは、不安げな兄様の顔でなく、慈しむような先生の顔だ。
「大丈夫」
頭の下にある太腿が少しだけ緊張で強張る。
「ねえ、幸せね」
その言葉に怯える必要は無い。だって、返事を聞く時間も、唇を塞ぐ時間も、私達はもう潤沢に持っているから。
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