水、穿つ。【水魚シリーズ#5】

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  ◇ 「タッくん、忘れ物。家を出たところでおばさんに会った」  新鮮な空気、なんとなく不自然に整った身なり、飛び交う聞き慣れた挨拶。教室で繰り広げられる朝の日常。同じクラスの幼なじみの席へ行き、託された棒状の物を渡す。 「え、ありがとう。……って、箸じゃん!」 「お弁当を持ち上げた時点で箸が無いことくらい気付け、って、逆ギレしてた」 「入れ忘れたとは言わないよね。あはは。あの人らしい」  学校での私は、隣家に住む幼なじみの貴男(たかお)と一緒にいることが多い。当の本人は知らないことだけれど、今「タッくん」と呼ぶその男を、前生でも私と兄様は「ご近所のタっくん」と呼んで親しくしていた。そんな気安さがあって距離が近いだけなのだけれど、周囲からすると時々は異質と見えるようで、注意を受けることもある。主に、この幼なじみの恋人によって。  そんなことはもう慣れっこで、幼なじみのために都度弁明と謝罪をしてきたけれど、しかし、この後の出来事は些か意外で、面食らってしまった。 「なにそれ、本妻気取り!? お母さんとも仲良いですアピール!?」  少し離れた席のクラスメイト、幼なじみが最近付き合い始めた女の子がそんなことを喚いて、わっと机に突っ伏し泣き出したのだ。更には、その友達の女の子数人が彼女の周囲を固め口々に慰めの言葉を掛けながら、遠目にこちらを睨んできた。  突然始まった茶番に、まさか自分が巻き込まれるなんて思いもよらない私が呆気にとられていると、「謝りなよ」と、一人の女の子が詰め寄ってきた。驚いたことに、正義感に燃える、絶対に自分が正しいと思っている表情だ。それを見た瞬間、酷く冷たい感情が背筋を下った。 「面倒臭い」  出てきた言葉はそれだけで、突き放したように響いた声に、自分でも驚いた。私と幼なじみとの間には恋愛に発展する要素は無いのだから、こんな幼稚な女の子でも貴男の彼女である限り誤解させたなら謝るべきだと、頭ではわかっている。それでも、 「タッくん、ごめん。私、あの子には謝れない」  彼女を視界に入れず幼なじみに向き直って宣言すると、がたん、と椅子が倒れる音が背後で上がった。詰め寄られるのだろうと覚悟してゆっくりと振り返った瞬間、パン、と耳元で破裂音が鳴り、顔が弾かれた。  平手で頬を打たれたのだと気付いたのは、幼なじみが彼女と私の間に割って入ってからだった。 「タッくんて呼ばないでよ! 他人の彼氏に馴れ馴れしい!」 「いいから、おいで」  喚き散らす彼女を、幼なじみが廊下へ連れ出す。穏やかだけれど、いつもより少しだけ低い声。温厚な彼にしては珍しい、怒った時の態度だ。  当事者が消え、成り行きを見守っていたクラスメイトたちは、徐々に日常を取り戻す。私も自席に戻って、ふと廊下に目を向けた。そこには既に幼なじみと彼女の姿は無く、たまたま通り掛かったらしい五郎先生が足を止めずにこちらを見ていた。一瞬目が合ったけれど、私はゆっくりと視線を逸らし、正面を睨んで、「面倒臭い」と声に出さずに呟いた。 「災難だったな」  事の次第を聞いた五郎先生は、亀に餌をやりながらカラカラと笑った。放課後の生物室は久しぶりであった。先生と付き合うようになってから意識してこの場所を遠ざけてきたけれど、今は幼なじみから逃げるために身を寄せていた。幼なじみごと彼女に腹を立てていたし許す気になれなかったので、謝罪する隙を与えたくなかったのだ。 「なあ、あの時、面倒臭いって言ってた?」  内心ギクリとしたのを素知らぬフリでやり過ごそうとするのを、先生はクックッと喉を鳴らして笑う。 「お前って昔からそういうとこあるよな」 「前の私? そうですか?」 「なんだ、無自覚かよ」  何が無自覚だと言うのだろう。前生での深結は、自分の寿命が短いことを幼い頃からなんとなく知っていて、そのためにやたらと諦めの良い、大人しい、お淑やかな娘だった。今の私みたいにわがままも生意気も言わなかった。誰かの事を面倒臭いなんて、思ったとしても言わなかったはずだ。 「彼女の気持ちもわかるけどな。お前ら距離感、ちょっとおかしいもんな。幼なじみの、えっと、タッちゃんだっけ?」 「タッくん、です」 「ああ、タッくん、な」  餌やりをしていた先生の手が止まる。 「お前は()()()の幼なじみだって言うけど、覚えてねえからな。俺はやっぱり、嫉妬するよ」  今「タッくん」と呼ぶ幼なじみの貴男を、前生でも私と兄様は「タッくん」と呼んでいた。確かに、呼んでいた。でも、先生はそれを、覚えていないと言う。
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