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回想(1)
田舎の旅館の長女として生まれた私は、幼い頃から女将として活躍することを期待されていた。母は接客の仕方を熱心に指導して、父は私が働く様子を見て大いに喜んだ。
しかし、私は女将として働くことに価値を見出せなかった。私は、小さな頃からお絵描きが大好きで、将来は画家になりたかった。
ある日、そのことを両親に伝えたところ、父からは非難され、母からは諭された。仕方がないので、接客の仕事を覚えながら、私は絵の練習を続けることにした。
この日、私は裏山へとやってきていた。
スケッチブックと鉛筆を用意して、簡易椅子に座り、崖の下にある川を描く。
しばらくして、指が疲れたので休憩することにした。
鉛筆を耳に挟み、背伸びをする。
すると、突然、目の前が真っ暗になった。
「え?」
私は驚いて、その場で固まった。
なにが起きたのか、と思う間もなく、背後から声が聞こえた。
「僕は誰でしょう」
「……誰?」
そう私が訊くと、暗闇に光が差し、遠ざかっていく誰かの手が見えた。
後ろから目を隠されていたのだと、ようやく理解する。
振り向くと、そこには和服を着た坊主頭の男の子が立っていた。
「俊夫君」
「こんにちは」
俊夫は、私が通う尋常小学校の同級生である。彼の父親が営む地方銀行が、私の旅館に出資をしているので、なにかと顔を合わせる機会が多く、気が付くと友達になっていた。
「どうしたの?」と私が問う。
「散歩をしていたら、恵子さんの姿が見えたので、声をかけたのですが……」俊夫は口元を上げた。「反応してくれなかったので、描き終えるのを待っていました」
「あ、そうなの。ごめんなさい、気が付かなかった」
「いいんです。本当に絵を描くのがお好きなんですね」
「そう、好き。楽しい」私は力強く頷く。「楽しいよ、本当に」
「以前、画家になりたいと言っていましたね」
「え?あ、うん……、まぁね……」私は無理に笑おうとした。「でも、親が許してくれそうになくてさ」
「許してくれないと、どうなるのですか?」
「どうなるのって……。どうなるのって、そりゃあ……、画家になれなくなるんじゃないの……?」
「関係ありませんよ、親の意向なんて」俊夫はさらりと言う。「僕も親に銀行員になれってしつこく言われていますけど、まったく気にしていません。僕は、もっと学問に触れられる仕事をしたいので……。まぁ、そう言うたびに叱られるのですが」
「……」
「まだ、お絵描きを続けるのですか?」
「あ、うん」
「そうですか。では、また……」
そう言い残し、俊夫は去っていった。
私は椅子に座り直し、紙に目を向けた。
(親の意向なんて関係ない、か……)
鉛筆を握り、私は写生を再開した。
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