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回想(2)
尋常小学校を卒業した私は、高等女学校へと進学した。高等女学校は、主に、良妻賢母たる女性を育成するための機関であるが、そのカリキュラムには、天皇制教育が組み込まれている。天皇とは、現神であり、現人神なのだと、勿体なくして人の姿を纏いこの世に現れた神なのだと、私は何度も教師に説かれた。
私は、はっきり言って、教師の言うことを全く信じられなかった。不器用な私は、そういった当時の日本からすると反社会的な思想を隠すことができなかった。そのため、非常に教師から嫌われていた。人前で叩かれ、大声で怒られるので、それを見た同級生も真似して私を虐げた。
さらに、私に家業を継ぐ意思がないことを察した両親も、少しずつ私に素っ気ない態度をとるようになった。会話が極端に減り、今では食事の時間をずらすようになった。
つまるところ、私は孤独だった。
楽しいと思えることは、お絵描きだけ。
放課後、私は近所にある吊り橋までやってきていた。
画材を用意する。
イーゼルにキャンバスを乗せて、パレットを持った。
夕日に照らされた雲をよく観察しながら、絵の具を取り出し、写生を開始する。
しばらく黙々と手を動かしていると、キャンバスに雫が垂れた。
視界が滲んで、風景が見えない。
私は頬を拭い、筆の先に集中しようとした。
しかし、いくら拭っても、涙が止まらなかった。
(私は……)
ハンカチを目に当てて、じっとする。
(私は、間違っているの?)
ただ、自分の気持ちに正直に生きているだけなのに……。
なのに、お前は間違っていると、皆そう言うのだ。
絵を描くことをやめろと……、もっと生産的なことをしろと……。
(ふざけるな……)
ふざけるな!
絶対に……、絶対にやめるものか……!
肩が震えて、鼻の奥が痛くなった。
しばらくして、ようやく落ち着いた。
日が沈み、辺りが薄暗くなってきたので、画材を片付け、帰り支度をする。
そのとき、突然、目の前が真っ暗になった。
私は驚いて、一歩後退した。
すると、背中が柔らかいものにぶつかった。
「僕は誰でしょう」
背後から男の声が聞こえる。
聞き慣れた声だ。
「……俊夫君?」
「正解です」俊夫は私の目から手を離した。
私は振り返りながら言う。「……あのさ、ふつうに声をかけられないの?まえにもやったよね、それ」
「嫌ならやめますけど」
「まぁ嫌ではないけど……」私は腰に手をあてた。「で、なに。なんの用?」
「一緒に帰りませんか?」
「え?あ、うん。いいよ」
「持ちます」俊夫は私の画材が入った鞄を手に取り、歩き出した。
「いや、いいって……」
「大丈夫です」
「……どうも」
「それで、どうして泣いていたんですか?」俊夫がさらりと尋ねる。
「……見ていたの?」
「はい」
「……」
「答えたくないのなら、もちろん答えなくて良いですけど」
「……」
私は迷ったが、この俊夫という男の誠実さを見込んで、話すことにした。
「……お絵描きばっかりしてるから、家でも学校でも孤立してるんだよね、私……。ひとりぼっちなわけ。だから……、まぁ、泣いてた」また泣きそうになったので、私はなんとか堪えた。「なんでかなぁ。なんで、皆、もっと自分の好きなことに集中して生きられないのかな。他人が自分と違うことをしているのが、そんなに気になるの?」
「気になるみたいですね」俊夫は頷いた。
「馬鹿みたい」私は鼻息を漏らした。「早く自立したいなぁ。一人暮らしをして、気軽に気楽に生きたいよ」
「それは違います」俊夫は首を振った。「自立するとは、自由になるということは、それだけ苦労を背負いこむということです。決して気楽ではありません。決して」
「わかってるよ、そんなこと」私は口を尖らせた。
「……それと、もうひとつ間違いが……」
「?」
「恵子さんは、自分のことをひとりぼっちと言いましたが……」俊夫は真面目な顔をして言う。「僕がいるので、ひとりぼっちではありません」
ぷっ、と私は吹き出した。
口元を手で隠し、笑いを堪える。
「……よくそんな恥ずかしいことを、真面目な顔して言えるよな……」
「頑張りました」
「頑張りましたって……!」私は声を出して笑った。「いや、凄いな。うん、予想外だった、俊夫君が、そんなこと言うなんて……」
「恵子さんは、ひとりではありません」
「わかった、わかったから、もうやめて……」
私は苦笑すると、指で頬を拭った。
それは、先程とは違い、喜びによる涙だった。
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