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回想(3)
それからというもの、私は俊夫と共に過ごす時間が多くなった。放課後は待ち合わせをして二人で下校し、休日は朝から何処かへ遊びに出かける日々。
彼の誠実な人格に惹かれている自分がいることを、私ははっきりと自覚していた。この頃には、既に私は、俊夫というひとりの人間をすっかり好きになっていた。
今日も私は、俊夫と二人で公園へとやってきていた。
目の前のベンチに彼を座らせて、キャンバスに色を塗っていく。
俊夫の似顔絵を描くのだ。
彼に褒めてもらえるような素晴らしい作品を作るために、私は全神経を筆の先に集中させた。
朝から始めたというのに、気が付くと日が暮れていた。
目の前には、黙々と本を読む彼の姿があった。
(しまった……)
私は俊夫に謝った。
「ごめん、夢中になってた……」私は頭を下げた。「ごめんね、退屈だったよね。ごめん、ごめんなさい」
「本を読んでいたので、大丈夫です」俊夫は首を振る。「退屈なんかしていません」
「せっかく二人で遊びにきてるのに……」
「……」
しばらく二人は無言の時間を過ごした。
沈黙を破ったのは俊夫だった。
「恵子さんは、高等女学校を卒業したら、どうしますか?」俊夫が尋ねる。
「……どうするって……、たぶん、就職すると思うけど」
「具体的には?」
「……蚕糸工場で働くことになるのかな。学校が紹介してくれた求人で、私にできそうな仕事、それぐらいだから。本当は絵で食っていきたいけど……、誰も買わないからね、今時、絵なんて……」私は溜め息をついた。「俊夫君は?」
「高等学校を卒業したら、大学へ進学します」
「へぇ、どこの?」
「東京の」
「本当に?凄いなぁ」私は素直にそう思った。「大学へ行けるのなんて、明らかに頭の良い人か、お金持ちの子供ぐらいだからね。俊夫君の場合……、まぁ両方か」
「それで、僕、東京でアパートを借りるので……」
俊夫はそこまで言って黙った。
「……?なに?借りるから、なんなの?」
「恵子さんも、来ませんか?」
「……ん?」
「一緒に東京に、来ませんか?」
「え?」私は何故か少し笑ってしまった。「……どういうこと?」
「……僕、恵子さんの絵が好きです。夢中になってお絵描きしている恵子さんが大好きです。心から楽しんでいることが伝わってきて、こっちまで楽しくなります」俊夫は、私の描いた彼の似顔絵を見て、微笑んだ。「切り詰めれば、仕送りで生活できると思うので、一緒に住みましょう。そして、思う存分、創作活動に専念してください」
「……」
私は、しばらく黙った。
突然の提案。
正直、戸惑った。
断る口実を探している自分がいる。
けれど、考えれば考えるほど、断る理由なんて無いことがわかった。
「……私、働く。一生懸命働く。俊夫君に迷惑はかけない。だから……」私の声は震えていた。「だから、私を連れていってくれますか……?」
「はい、わかりました」俊夫は即答した。
「……」
感極まり、私は彼の胸に飛び込みそうになった。
しかし、羞恥心が邪魔をして、それは実行されなかった。
代わりに、握手をする。
目を合わせて、二人で吹き出した。
なんて捻くれ者……。
絶対に、絶対に彼を不幸にしてはいけないぞ、と自分に言い聞かせた。
私を救ってくれた人を、絶対に……。
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