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回想(4)
私と俊夫は東京へと上京し、アパートで二人暮らしをすることになった。上京まえに宣言したとおり、私は一生懸命働いた。働きながらも、絵の練習はしていた。単純に絵を描くのが好きというのもあるが、俊夫の期待に応えたい、という思い、そして、大学で芸術を学んでいる奴らに負けたくない、という私にしては珍しい意地もあったと思う。
そして……、
1941年。太平洋戦争が始まった。
以前から戦争が始まる兆候はあったので、ある程度覚悟していたことではあるが……、正直舐めていたと言わざるを得ない。比較的、経済的に恵まれている私たちですら、食べるものを自由に選べないのだ。
当然、お絵描きなんてしている暇は無くなった。朝から晩まで、製糸工場での労働に従事する日々。仕送りが滞る月がよくあったため、俊夫は大学へ通いながら労働することになった。夜、アパートで会う頃には、二人とも満身創痍の極限状態。しかし、そんなときでも、俊夫は私に理性的に接してくれた。そんな彼を見習って、私もできることはしようと思った。
そして、ついに政府は学徒出陣を命じた。
学生を対象に兵役義務を課す命令である。
当然、俊夫も例外ではない。
この日、彼に向けて招集がかかった。拒否は許されない。
私は見届けるために、軍港まで彼に寄り添った。
「恵子さん」と俊夫が言う。
「……なに?」
「僕が兵士として所属するのは、そんなに危険な場所ではないけれど……」俊夫は口を私の耳に近づけた。「もし、戦争が終わって、一年経っても僕が帰ってこなかったときは、もう、僕のことは死んだと思ったほうがいい」
「……」
「いいかい、日本は、きっと負ける。そんなに遠い未来のことではない。学生に兵役義務を課すぐらいなんだ。圧倒的な劣勢であることは明らかだよ」俊夫はゆっくりと言う。「なら、考えるべきは、負けたあとのこと。戦争に負けた国が、どれだけ悲惨な末路を辿るのか……、歴史を見れば容易に想像できる。そんな環境で、恵子さんをひとりにしておくわけにはいかない。だから、僕が帰ってこないのなら、一刻も早く守ってくれる人を探しなさい」
「嫌だ」私は首を振る。「どうしてそんなことを言うの?私は……、ずっと待ってるよ。俊夫君を、ずっと……」
「恵子さん」俊夫は微笑んだ。「……貴女はとても理性的な人だ。人間的な人だ。だから、わかるはず。僕の理屈が」
「……」
「東京は危険だ。僕を見送ったら、田舎へ帰るんだ。わかったね?」
「……」
時間になり、俊夫は他の招集された学生と共に船に乗り込んだ。
俊夫は、船に乗る際、一度だけこちらを向いて、手を振った。
私も手を振り返す。
船は出発した。
私は、船が見えなくなるまで港に立っていた。
しばらくして、私は汽車でアパートへと帰った。
扉を開けて、部屋の中に入る。
俊夫と暮らした部屋だ。
何度も彼と笑い合った部屋だ。
暗い部屋に、ラジオの音が響いていた。
日の丸のために、天皇陛下のために、どうのこうの……。
そんな馬鹿な言葉が聞こえた。
私は全力でラジオを蹴り飛ばした。
足を抱えて、部屋の隅で蹲る。
誰かの啜り泣く声が聞こえた。
その啜り泣く声は、朝までずっと続いた。
ずっと。
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