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現在(2)
指定された港に一番近いホテルに私はチェックインした。
しばらくは部屋にいたのだが、待ちきれなくなった私は、毛布を持って外に出た。
港に到着すると、風をやり過ごせそうな小屋の影に座り、じっとする。
光源がないため、辺りは真っ暗である。
風の音がうるさい。
私は思い出していた。
彼と初めて会った日のこと。
一緒に遊んだ日のこと。
泣いているところを彼に見られた日のこと。
一緒に暮らそう、と言ってくれた日のこと。
みんな、綺麗な記憶だ。
でも、そこからは、辛く惨めな思い出ばかり。
製糸工場で身を粉にして働いた日々。
彼の船出を見送った日。
田舎で孤独に過ごした日々。
寂しいときは、若い頃に描いた彼の似顔絵を抱いて眠った。
それだけが、心の支えだった。
誰かの声が聞こえて、私はゆっくりと瞼を開けた。
目の前には、ベニヤ板仕立てのぼろい小屋。
朝になっていた。
毛布を丸めて手に持ち、港の様子を伺う。
すると、港には一隻の船が寄せられていて、辺りに人が集まっていた。
私も人だかりへと向かう。
「俊夫君……」
人をかき分けて、彼の名を叫ぶ。
「俊夫君……!」
そのとき、
突然、
目の前が真っ暗になった。
「あ……」
なにが起きたのか、と考えを巡らすまえに、
背後から男の声がした。
「僕は誰でしょう」
その声を聞いた瞬間、私の体はびくんと大きく震えた。
それは、懐かしい声だった。
そして、もう一度……、もう一度だけ聞きたいと、願い続けていた声だ。
私は、慎重に口を開くと、小さな声で呟いた。
「……俊夫君?」
「正解」
「本当に?」
「うん」
「本当に、俊夫君なの……?」
「確かめてみたら?」
そう男が言うと、目隠しは解かれた。
私はゆっくりと振り向いた。
目の前には、軍服を着用した男が立っていて、真っすぐとこちらを見据えている。
その目尻、その笑窪。
間違いなく、俊夫のものだった。
次の瞬間には、私は彼の胸に飛び込んでいた。
「馬鹿野郎!」私は彼の胸に顔を押し付けた。「馬鹿野郎……!」
「ごめんね、連絡できなくて……」俊夫は私の背中を撫でた。「ただいま、恵子さん」
私は、大声で泣いてしまった。
もう、子供のようだった。
しばらくして、ようやく落ち着いた私は、俊夫の腕に抱き着いた。
二人で並んで歩く。
「ずっと昔から思っていたけど」私が言う。「あの目隠しする悪戯って、なんなの?なんの意味があるの?」
「べつに意味なんてないよ」俊夫は口元を上げた。「初めは、気になる女の子にちょっかいをかけただけ。いや、それは今でも同じなのかな」
「そう……」私は吹き出した。「帰ったら、なにをしたい?」
「まず、ご飯を食べたいな。味の濃いものを口にしたい」
「わかった」
「恵子さんは?」
「え?」
「恵子さんは、なにをしたい?」
「んー、そうだなぁ」私はふと思いついたことを口にする。「あ、そうだ。似顔絵を描きたい」
「似顔絵?」
「うん」
「僕の?」
「そう……。ちょっと老けた貴方の顔を、記録しないとね」
私は微笑んだ。
そう、私に笑顔と勇気、そして、温もりを与えてくれた貴方の顔を、記録しなければ……。
【完】
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