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「あれ、松岡君。そこで何してるの?」
「誰かと待ち合わせ?」
とある大学にて、校内マップの看板を見つめていた男子学生に二人の女子学生が声をかける。その声に気付いて振り返った、松岡と呼ばれた男子学生どうにも困っているといった表情だった。
「次の情報統計学の講義の教室がどこかわかんなくて……」
「新館ってまだそのマップに載っていないよねえ。新館の三〇二だったよね」
「そうそう。ていうか松岡君、何回もその授業受けてるじゃん。記憶喪失にでもなった?」
「あー、もしかしたらそうかも……いや冗談だって」
不自然に顔を強張らせる松岡。もちろん、彼は本当に記憶喪失になったわけではない。しかし講義が行われる教室を知らなかったこともまた事実であった。
その日、松岡という青年は知り合いから不自然に思われる行動が目立った。講義が行われる教室を正確に把握していないだけでなく、講義のテキストもほとんど忘れていた。さらに、友人関係においても名前と顔が一致していなかったり、自分が所属するサークルの先輩や後輩を知らないような素振りを見せた。その変貌ぶりは、まるで彼が「松岡大志」の着ぐるみを来た別人であるかのようだと周囲が思うほどだった。
教室移動の際にどこかで話されていた雑談が、彼の耳に入る。
「カイト、こっちこっち!」
それは誰かがカイトという友人を呼んだ声であった。その声に、なぜか松岡は足を止める。自分の意志で停止したというよりは、条件反射で立ち止ってしまったような反応だった。
一瞬、声の方向へわずかに首を動かした松岡だったが、思い直したようにその動作を中止した。その顔は何かを諦めた者のような憂いを帯びており、そしてそれは二度と取り戻せないということも知っているといった表情だった。その真意は、ここにいる誰にもわからないが。
ただ一つ、間違いなく言えることがある。
彼はもう「松岡大志」である、ということだ。
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