世界は五分前に登録したアルバイトで始まった

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 変身代行の仕事は思っていたよりもあっけなく、何事の問題もなく終えることができた。  介斗がしたことと言えば、スマートフォンに送られてきた「林大悟」の基本情報と大学の地図、そして仕事の詳細が書かれたテキストファイルに従って現地に赴いて講義を受けることだけだった。オフィスで手渡された手荷物に入っていたカメラで板書を撮影し、教授が話していることをかいつまんでノートに記入。講義の最後に講堂内の端末と学生証を使って出席登録を済ませる。それだけであった。  本物の「林大悟」なる人物に会ったことはもちろんないが、どうやらあまり交友関係が広くはないらしい。話しかけてくる学生はほとんどいなかったし、一言二言話しただけでは中身が介斗であると察せられる様子もなかった。  指定された三つの講義を終えたころには夕方になっていた。これで仕事は終わったので、マスカレードのオフィスに戻ろうとすると、スマートフォンからメッセージが届いていた。 『本日の伊坂さんの変身代行が完了したことを確認しました! 報酬を支払いますので、オフィスに立ち寄ってください!』  どうやって授業に出席したことを確認したのだろうか。出席管理のシステムに介入でもしたのかもしれない。自分が気にすることではないだろう、と介斗は深くは考えないようにした。  そして、林大悟の顔のまま帰るわけにもいかないので、介斗はそのメッセージに従うことにした。  オフィスに戻ると、案内係の女性は再び黒カーテンの中へと介斗を導いた。 「伊坂さん、お疲れさまでした。今日の仕事で何か気になることはありましたか?」 「ああ、いえ、特には……」 「ではメイクを落としますので、目を瞑ってください」  指示通りに目を閉じると、女性の手が介斗の顔をゆっくりと数回撫でまわした。顔のあちこちで、何かがゆっくりと縮んだり伸びたりしていくような感覚を覚えた。  数分もしない内にメイク落としは終わった。また不思議なことに、目を開けると介斗の顔は介斗のものに完璧に戻っていたのだ。先ほどまで別人の顔になっていたことなど、夢のように思えるほどであった。 「では外で報酬を支払いますので、こちらへどうぞ」 「あの、ホントにこのメイクアップってどうなっているんですか? テレビや映画の特殊メイクとは全然違うような……」 「申し訳ありません。それについては当社の極秘中の極秘になりますので、申し上げることは……」 「そ、そうですよね。すみません」  案内係の目の奥の光が消えたので、立ち入りすぎたと介斗は質問したことを後悔した。  しかし彼女はそれ以上責める様子もなく、淡々とした手続きで介斗に報酬を支払った。林大悟の手荷物と引き換えに手渡された封筒には、皺一つない一万円札が十四枚。結果として、授業の代行が十四万円の稼ぎとなったのだ。  あまりにも簡単、あまりにも高額な報酬に、介斗の心は歓喜した。が、同時に恐れも持った。  これは明らかに真っ当な商売ではないだろう。介斗は授業の代理出席で済んだが、他のアルバイトは法に触れるような変身代行を行っているかもしれない。それに、顔面を別人に作り変える技術も怪しさ満点だ。もう関わらない方がいいかもしれないと、ビルを出た介斗はぼんやりと心に決めた。  振り返り見上げると、マスカレードのオフィスにはまだ明かりが点いている。すでに日が沈み、白い光を透かす窓がぼんやりと闇に浮かび上がる。  堂々とそこにありながら、中身は得体の知れない領域。未知の恐怖というものは、町の一角に平然と居座っているものなのかもしれない。
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