幸せ味のミルクラッテ

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 その店のマスターは、随分と歳を召していて、そろそろゆっくりとした隠居生活に入りたいのだと言っていた。しかし、馴染み客との会話は楽しいし、ふらっと訪れてくれた客との出会いも新鮮で得難い。そう思うと、なかなか引退の踏ん切りがつかず、しかし、体も無理が効かなくなってきて、困っているのだと言う。手伝いを雇おうにも、細々とやっている店だから、金銭的な余裕はない。  そんなことを、さも何でもない事のように話すマスターにつられて、俺はとんでもない事をサラリと口にした。 「俺を使わないか?」  金銭的にも時間的にも余裕のあった俺は、それから、ほぼ押しかけのように店の手伝いに通った。最初は、恐縮しきりのマスターだったが、いつしか諦めたのか、接客のイロハや、コーヒーの美味い淹れ方を教えてくれるようになった。  俳優業そっちのけで、そんな突拍子もない行動に出たのも、今にして思えば、きっとマスターの言っていた「客との出会い」という言葉に惹かれたからだと思う。  マスターの言った通り、店には色々な客が来る。人待ち顔の人、休憩を楽しむ人、1人の時間に浸る人……  その時の俺は、人を見ることで俳優に必要な人間観察力が養われると思っていたのかもしれない。
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