あなたが誰か知らなかった

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「いらっしゃいませ」  目の悪いお客さんのために、香菜は至近距離まで近づく。 「お席にご案内しますので、どうぞ。あ、私の肩に手をお乗せください」 「ありがとうございます」  お客さんが肩に手を乗せ、香菜はゆっくりと店内を歩く。    椅子に案内をして、香菜はディナーメニューを説明した。 「今日の日替わりはビーフシチューです。後はいつもの……」 「それでは、ビーフシチューをお願いします」 「かしこまりました」  今日は寒いせいか、お客さんがビーフシチューを即決した。  先にと頼まれたダージリンティーを入れて、香菜は席に運ぶ。 「少し熱くなっていますので、どうぞお気をつけ下さい」 「ありがとうございます」  そう答えるお客さんの声が、香菜はふと気になった。 (あれ……)  つい最近、どこかでこの声を聞いた気がする。  でも、どこだったか思い出せない。  思い出そうとしている間に、料理の準備が出来た。 「香菜さん、3番さんへ」 「はい」  香菜がお客さんのところにビーフシチューを運ぶ。    サングラスをかけたままのお客さんは、じっと何か考え事をしていた。 「お待たせしました。ビーフシチューです」 「あ、ああ、はい」  弾かれたように顔を上げ、お客さんが少し体を引く。  香菜はお客さんの手がひっかからない場所に気を付けて料理を置いた。 「ビーフシチュー、熱いお料理ですので、お気をつけ下さい」 「ありがとうございます」  お客さんがスプーンを手にビーフシチューを食べ始まる。  お肉はとろとろによく煮込まれているものの、野菜は大きめカットなので、香菜はちょっと心配してお客さんの様子を見守った。  しかし、お客さんは器用に野菜をカットし、口に運んでいった。 (良かった)  ホッとしながら、香菜はお客さんが熱々のビーフシチューを口に運ぶのを見つめる。  SOZAIYAのビーフシチューはコクのあるビーフシチューで、スプーンを入れるとほろほろと崩れる牛肉に、シチューの味がよく染み込む。  それをおいしそうにお客さんが食べてくれる姿が、香菜は好きだった。 「あの……何か」  お客さんが食べる手を止めて、香菜に尋ねる。  香菜はじっと見すぎていたと気づき、慌てて軽く頭を下げた。 「あ、すみません! どうぞ何かございましたら、お呼びください」  香菜がお客さんの席から離れようとした時、テレビから笑い声が聞こえてきた。 『村瀬くんも入ってよ~、独身会』  中堅のお笑い芸人が俳優の村瀬優紀をいじっている。 『俺が最年長なのよ。村瀬くんが入ってくれれば、同年代が増えるからさ』 『いいじゃん、村瀬さん入って、それで合コンをバンバンやって、独身を抜けだしたら?』  他の芸能人につっこまれ、村瀬優紀は困ったような微苦笑を浮かべた。 『いや、僕は結婚はそんなに……』 「あ、さっきの人だ。また言われてる」 「また?」  ビーフシチューを食べていたお客さんが手を止め、香菜に尋ねる。  香菜はうっかり声に出ていたことに気づき、しまったと思ったが、今さらなんでもないですとも言いづらいので、正直に話した。 「お昼にもこの村瀬優紀さんって俳優さんが独身いじりされていたんですよ」 「独身いじりですか」 「そうです。今って『多様性』言うわりに、こういう独身をどうでこうで言うの、減ってないと思いませんか?」
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