私はどこへ消えた?

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 ──ああ、いったいどこへ行ったの? 私の体は……。  カナエは、空っぽになった自分のベッドを見下ろして途方に暮れていた。正確には、部屋の天井近くを浮遊するカナエの“幽体”が途方に暮れていた。  ことの起こりは二ヶ月ほど前、カナエが中学三年生になって間もなくの頃だった。同じクラスのチカと机を向い合わせてお弁当を食べていたとき、チカがささやくようにしてカナエに尋ねたのだ。 「ねえ、カナエちゃん。幽体離脱って信じる?」  その言葉を、カナエは漫画や小説で聞いたことがあった。なんでも、肉体から魂が抜け出す現象のことで、魂だけで空中を自由に飛び回ったり、壁をすり抜けたりできるのだそうだ。年齢のわりに早熟というべきか、やや背伸びがちなリアリズムに目覚めつつあったカナエにとって、それは荒唐無稽なオカルト話に過ぎなかった。しかし、チカがわざわざそう尋ねるということは、おそらく彼女は信じている側なのだろう。カナエは慎重に言葉を選びながら答えた。 「うーん……、よくわからないけど、もし出来たらいいなって思うよ」  それを聞いたチカの顔がぱっと輝いた。 「そう思う? じゃあ、いいこと教えてあげる。私、実はね……」  チカは箸を置いて、顔をぐっとカナエのほうに近づけて言った。 「やり方、知ってるの」  ぽかんと開いたカナエの口から、卵焼きのかけらがこぼれ落ちた。  ──ああ、この子もまだまだお子様なんだ。幽体離脱なんていうファンタジーを信じているどころか、その方法まで知っているだなんて……。たぶん、夢の中で体験したことを、現実に起こったことと勘違いしているんだろう。  カナエは少しうんざりした気持ちになって、お茶をにごして話題を変えようとした。しかし、チカは真剣そのもので、「簡単に出来るようになる」だとか、「カナエちゃんにも体験してほしい」だとかの熱弁を振るった。結局、カナエは次の日曜日にチカの家に行って、幽体離脱のやり方を教えてもらうことになった。  ──そんなこと、あるわけない。私がそれを証明して、チカの目を覚まさせてあげなきゃ……。  そう意気込んでチカの家に向かったカナエだったが、すぐに自分が間違っていたと認めることになった。 「リラックスして……体の力を抜いて……そう、そんな感じ」  チカがレクチャーを開始して一時間ほど経ったとき、それは起こった。カナエはふっと意識が遠くなったかと思うと、次の瞬間には、ベッドに横たわる自分の体と、傍に付き添うチカの姿を見下ろしていた。夢と現実の狭間にすべり落ちたような、奇妙な感覚。幽体としての自分は何の拠り所もなく空中を漂い、少し気を抜けばどこかへと霧散してしまいそうだった。ありえないはずのことが現実に──それも、他ならぬ自分の身に──起こったことへのショックも束の間、二度と元の体に戻れないのではないかという不安が湧き上がってきた。水中を泳ぐように必死に手足を動かそうとしたが、今の自分に手足などあるはずもなく、何の推進力も生じない。  ──戻って! 戻ってよ!  その想いが通じたかのように、ベッドの上の自分の体が、視界の中で急速にズームアップされていった。幽体が肉体を目指して動いているのだ。「ぶつかる!」と身構える間もなく、目の前が暗闇で覆われた。またも意識が遠くなり、そして……。  カナエはベッドの上で跳ね起き、茫然となってチカの顔を見つめた。チカはカナエの手をぎゅっと握って、嬉しそうに言った。 「ね? 本当にできたでしょ?」    世の中には、常識の範疇では説明できないこともあるのだと、この日、カナエは思い知らされた。  ──でも、それならそれでいい。この現象を隅々まで調べて、理解してみせる。  このポジティブ思考と探究心の強さがカナエの特徴だった。  チカの話によれば、彼女が初めて幽体離脱を体験したのはカナエよりも半年ほど前だったらしい。インターネットでたまたま見つけた噂話をもとに、興味本位で試行錯誤を重ねたところ、ある晩ついに成功したのだそうだ。カナエもすぐにコツをつかんで、その日以降はチカの手を借りずに離脱ができるようになった。そして、チカに話を聞いたり、あるいは自分自身で試すことによって、この奇怪な現象への理解を深めていった。  まず、幽体の状態では、この世のどんな物体にも干渉はできない。全てすり抜けてしまい、触れたり動かすことは一切できないのだ。それは人間や動物に対しても同じで、どれだけ騒がしく周囲を飛び回ろうとも気づかれることはないし、漫画で見たように他人の体を乗っ取って動かすようなこともできなかった。動かすことができるのは、あくまでも自分の幽体だけ。そして、その手段は、飛行する自分の姿を強くイメージすることだった。慣れてくると、最大で時速三十キロメートルほどの速度で移動できるようになった。離脱時間の制約も、今のところは見つかっていない。夜間に六時間ほど幽体の状態で過ごしたこともあったが、次の日に睡眠不足になっただけで、それ以外の不調は特に見られなかった。  カナエにとって残念だったのは、自分が幽体になったからといって、他人の幽体を見ることはできないということだった。つまり、チカと隣り合って飛び回り、笑ったりおしゃべりをすることは、かなわなかったのだ。その代わりに、ときおり二人は学校でお互いの体験をひっそりと教え合った。  いつの間にか、カナエは幽体離脱に熱中するようになっていた。それは、未知の現象に対する探究心だけではなく、飛行の快感も大きな理由だった。深夜の街の上空を駆けてゆくと、この大きな街の全てが自分のものになったような気がした。天井も壁も、何ものも自分を遮ることはできない。誰も自分の姿を見ることはできない。ここは私だけの自由な世界。学校や家の嫌なことも、全部忘れて……。  そして、今夜も家族が寝静まったあと、カナエは夜の街へ飛び立っていった。それから一時間ほど経った午前二時ごろ、彼女は自宅へ戻ってきたのだったが……。  ──どうして? なんで私の体が無くなっているの?  チカに教えてもらって以来、何度となく幽体離脱を繰り返してきたが、こんなことは初めてだった。慌てて家中を飛び回って探したが、トイレにも風呂場にも、両親や弟の部屋にも、自分の体は見つからない。家の周辺も数十メートルにわたって捜索したが、無駄だった。混乱し、思考がぐちゃぐちゃに絡まる。これまで頭の片隅に追いやってきた、肉体に戻れなくなることへの不安が、急に群れを成して襲いかかってきたかのようだった。ここに無いはずの心臓が脈打っているような錯覚さえ覚えた。  ──落ち着け……。今の私にできることは、見ることと、考えることだ。落ち着いて周りを観察して、何が起こったかを考えれば、きっと手がかりが見つかるはず。  自分にそう言い聞かせて、カナエは少し冷静さを取り戻した。そして、改めて家の中を調べ始めた。そうして分かったのは次のようなことだった。  まず、ベッドのめくれあがった掛け布団の上には、パジャマの上下が無造作に放り出されていた。今夜、寝る前に着ていたものだ。代わりに無くなった服がないかとクローゼットの中を覗き込んだが、そこまでは分からなかった。次に、玄関を調べると、靴箱から出してあったはずの自分のスニーカーが無くなっていた。玄関ドアのサムターン式のキーは解錠されていた。それ以外には、家の中から持ち去られたものや、荒らされた痕跡は何一つ発見できなかった。  ──まず、どんな可能性があるか考えよう。体が無くなったということは、誰かが私を連れ去ったか、私の体がひとりでに動き出したかだ。もし誰かが連れ去ったのだとしたら、わざわざ手間をかけてパジャマを脱がす必要はないし、靴を持ち去る必要もない。だから、私の体が勝手に動いてどこかへ行ったということだ。  そこまで考えて、彼女は事態の不気味さに身震いしたくなった。自分の目の届かないところで、得体の知れない何かによって自分の体がコントロールされているという、これまでに味わったことのない恐怖と嫌悪感だった。  ──そういえば、夢遊病っていうのを聞いたことがある。眠っているのに体が勝手に起き出して、無意識に歩き回ったりする病気のことだ。食事や入浴とかの、日常的に行っている単純な行動をとることもあるらしい。もしかしたら、私の体にも同じことが起こっているんじゃないか? 抜け出した魂とは別に、脳が無意識に体を動かしているんだ。もしそうだとすると、私の体はどこに行こうとする?  カナエは日常の行動範囲を思い浮かべた。学校に、近くのコンビニ……カナエの自転車は庭に置かれたままになっていたので、徒歩で向かう場所といえば、この二つくらいのものだ。そして、どちらに行くにしても、片側二車線の大きな道路を横切らなくてはいけないことに思い当たった。この時間帯でも、ときおり車が走るような道路だ。頭によぎった最悪な想像を追い払って、カナエは文字通り家を飛び出した。  三十分ほど費やして、カナエは学校やコンビニへ向かう道の上を飛んで、自分の体を捜索した。歩く人影はもちろんのこと、道路に倒れている体が無いか、くまなく見て回ったが、結局は徒労に終わった。カナエの焦りは募っていった。  ──どうしたらいいの? チカの家に行って相談する? いや、行ったところで彼女は私がそこにいることを認識できないはずだし、そもそも、こんな時間に起きてはいないだろう。それに、彼女がもし似たような経験をしているなら、とっくに私に話してくれているはずだ。だから、この件に関してチカが助けになるとは思えない。それより、私の体を動かしている“何か”について、もう一度よく考えてみよう……。  ふと、カナエは何年か前に観たホラー映画を思い出した。転落事故によって昏睡状態になった少年の体を、悪魔が乗っ取ろうとするというストーリーだ。最終的に、悪魔は少年の代わりに、彼を助けようとした父親の体を乗っ取ることに成功し、他の家族を惨殺するのだった。  ──悪魔だなんて、馬鹿馬鹿しい! そんなの、現実にいるわけない!  そう自分に言い聞かせようとしたが、初めて幽体離脱を体験した日のことを思い出して、踏みとどまった。  ──もし仮に、本当に、悪魔というものが存在して、それが私の体を乗っ取ったのだとしたら? きっと、それは何か目的を持って家を出ていったに違いない。あの映画では、悪魔は宿主以外の人間を殺そうとした。でも、私の家族は無事だった。誰でもいいから人間に危害を加えたいのなら、身近にいる──それも、無防備に眠っている──私の家族を真っ先に狙うはずなのに、そうしなかった。じゃあ、目的は何なの? もし目指している場所があるなら、それはどこ? こんな時間に電車やバスは動いていないし、財布も置いていってるから、タクシーも使えない。自転車も残されたままだ。つまり、遠くへ向かう意思は初めから無いんだ。どこに向かったとしても、それはきっと、すぐ近くなんだ……。  中学二年生のときに引っ越してきたカナエは、この街のことをよく知らない。毎日をほとんど自宅と学校の往復で過ごし、家を知っているような友達もいない。……だだ一人を除いては。  ──チカの家……? もし、私の体を乗っ取った悪魔が、私の記憶を読み取れるのであれば、向かう先はもう彼女のところくらいしかない。でも、なぜ? まさか、チカに何かしようとしているの? 私の一番大事な人を傷つけて、私を苦しめようと?  考えがそこに至った瞬間、カナエの幽体は最高速度でチカの家へ向かっていた。そして、あっという間に家の上空へ到着した。部屋の位置は分かっている。あの日と違うのは、今回はドアではなく壁から入るということだ。カナエは一瞬ためらったが、意を決して部屋に飛び込んだ。  開いたカーテンから差し込む月明かりが、その部屋の凄惨な光景を照らし出していた。壁も、床も、天井も……全てが鮮血に染まっている。ベッドの上には少女が仰向けに横たわり、その上にはもう一人、レインコートを羽織った人間が馬乗りになっていた。レインコートは手に刃物を握り、とうに絶命しているであろう少女の体のあらゆる部位に向かって、執拗にそれを振り下ろす。一つ、また一つと、少女の体に裂け目が生まれてゆく。  その悪夢のような光景を、カナエはただ見ているしかなかった。静止しようにも、叫び声を上げようにも、そのための肉体は無い。気を失うか、いっそ発狂することができたなら、どんなに楽だっただろう。しかし、残酷にも、カナエの鮮明な意識はそれを許さなかった。自分の無力さに絶望する以外に、今のカナエにできることは何もなかった。  やがて、レインコートは満足したのか、少女の体から降りて、血の海の中に立った。包丁をベッドの上に投げ捨てて、少しの間、肩を上下させて息を整える。そして、かぶっていたフードを取ると、血と汗にまみれたカナエの顔がそこに現れた。続けてレインコートを脱ぐと、カナエのお気に入りのTシャツとスカートがその下から現れた。彼女はレインコートをその場に無造作に放り出したあと、部屋を出て、玄関に置いてあったスニーカーを履いて、家から出ていった。カナエの幽体は弱々しくその後を追った。    カナエの体は、近所の小さな川にかかる橋の上で立ち止まった。それまで付けていたゴム手袋を外して、川に投げ捨てる。手袋が川下へ消え去るのを見届けて、彼女は自分の肩越しに後ろを振り返った。その視線は、誰にも見えないはずのカナエの幽体の位置を正しく捉えていた。そして、彼女はカナエの幽体のほうを向き直って、語り始めた。声こそカナエのものだったが、その口調は、カナエがよく知る別の人物のものだった。 「カナエちゃん……、そこにいるんでしょう? 私の目には見えないけど、なんとなく分かるんだ。ひとつ増えたなって、そんな感じがするもの。カナエちゃん、私ね、あなたのことが大好きだから、特別に教えてあげる。あなたが引っ越してくるよりもずっと前、この街にはタエコって人が住んでいたの。よぼよぼのお婆ちゃんでね、家族もいなくて、誰からも愛されていなかった。でも彼女には一つだけ、他の人には無いものがあったの。それが、幽体離脱の力。彼女は自分が幽体離脱をするだけじゃなくて、他人にもその力を与えることができた。離脱して抜け殻になった他人の体に入って、その人の代わりに動かすことも……。そして、そのタエコというのが、本当の私なの」  彼女は昔を懐かしむかのように、目を伏せて、小さく「ふふっ」と笑って、それからまた続けた。 「あなたが転校してきたとき、私は廊下であなたの姿を見かけて、その美しさに目を奪われたの。なんとなく、昔の私にも似ているような気がした。それに、あなたは頭が良くて、いつも孤立していて、他の人とはどこか違ってた。そういうところも好きだった。だから私は、あなたになりたいと思ったの。三年生で同じクラスになって、あなたと仲良くなれたとき、あなたが私の家に来てくれると言ったとき、私がどれだけ嬉しかったか……。今こうして、あなたになれて、私は本当に幸せよ。一つだけ、残念なことがあるとすれば、もうあなたとお話ができないってことかな。でもね、私はあなたを近くに感じてる。そこにいるって分かってるから、それで我慢できる。だから、これからも私のことを見守っていてね、カナエちゃん……」  それだけ言うと、彼女はどこか寂しそうに微笑んでみせた。  カナエは自分の家へと帰っていった。そこで彼女は、眠っている家族を起こさないように注意しながら、洗面所で顔を洗った。そのあと、ふたたびパジャマに着替えて、布団にくるまって、すやすやと眠った。目が覚めると、家族と一緒に朝食を食べて、それから支度をして、いつものように学校へ向かった。  ──私はどこで、何を間違ったんだろう? 周りの人を見下していたこと? 自分が信じたものを疑わなかったこと? 寂しさのあまり、たった一人の友達のくだらない誘いを断れなかったこと? どこかで何かを間違えなければ、私は相変わらずつまらない学校生活を送って、幽体離脱なんてものに関わることもなくて、自分の体を奪われることもなくて、そのまま平穏に一生を終えることができたんだろうか? ……違う。私は何も間違っていないし、まだ終わってもいない。きっと方法を見つけて、あいつから体を取り返す。私は絶対に、諦めない……。
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