BLACK LOVERS

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「樹!明日って何時に起きれば良いんだっけ?」 「え?あ、あぁ……あの、さ。ごめん!また休日出勤が入っちゃって……」 「えぇ!?またぁ?ねぇ、最近多くない?上司の人とか、何か言ってないの?」 「まぁ、うん。その上司が色々仕事を持って来るからさ…… 絶対埋め合わせはするから!」 触っていたスマホから視線を逸らすと、頭を下げている彼の姿があった。彼のつむじを見るのは何回目だろうか。季節が変わるごとに増えて行くのは私の気のせいか。そんなことが頭を過る。 それでも愛おしい彼の事を私は憎めないので、「仕方ないなぁ」と言いつつ許してしまうのだ。大学時代から付き合っている私達は社会人になると、少しずつデートの回数が減って来た。お互いに仕事があるので仕方ないし、急な残業や休日出勤もあり得る。しかし、それですれ違いにはなりたくないので、頻繁に色々とこれからの話をしている。 「本当、ごめんな。俺が気が弱いばかりに……」 「なーに言ってるの!そんな所含めて樹のことが好きなんだから!また別の日に遊びに行こ!」 「紫苑……!ありがとなぁー!」 ガバッと勢いよく抱きついてくる彼からフワリと香るタバコの匂い。私はそこまでタバコは嫌いでは無いので気にならないが、樹から香ってくるこの匂いは好きだ。私は笑いながら彼の頭を撫でている。この時間が何にも変えられない幸せであると日々実感する。 「あれ、ちょっと痩せた?」 「え、そう?あー最近、お昼もまともに時間取ってないからなぁ」 「ちょっと、しっかり食べないとダメだよ?ただでさえ忙しいんだからさ」 「まぁ、そこそこに気をつけるよ。ほら、一緒にご飯食べよう!」 着ていたスーツをハンガーに掛け、ネクタイを緩めた彼は少し骨張った感覚がした。抱き付いて分かったのだが、言われてみればシャツが少し大きく見える。疲れているのもあるだろうが、やはり心配になる。 同棲を始めて半年。最近やっと慣れ始めたので今回のお出かけを私は心から楽しみにしていた。でもまぁ、仕方ない。仕事が理由なら。自分に言い聞かせつつ、胸がざわつくのを抑えるように樹を後ろから抱き締めた。 季節は巡りもう今年もあと僅かになった十二月。 私達はお互いに繁忙期に入った事により、家での会話が減っていた。家ではご飯食べてお風呂に入り寝るだけ。その生活を繰り返していたので体は疲れ切っていた。そんなある日。私はいつもより早めに仕事を終わらせてから、急いで家に帰った。 いつも夜遅くまで仕事している樹のために何か温かい物を作ろうと思っていたのだ。最近は出前やレトルトが多くなっていたので、手料理は久しぶりな気がした。電車を降りた後、白い息が目の前で消えて行くのを見つつヒールを鳴らす。徒歩10分圏内にある私達のアパートが目に入ると、すでに灯りが付いていた。 「あ!樹、先に帰って来れたんだ!」 いつもなら真っ暗なはずの部屋を見て、心が弾んだ。嬉しくなった私は足を速く動かす。リズミカルに鳴るヒールの音が私の心を表しているようだ。オートロックの玄関を通り、運よく止まっていたエレベーターに乗り込んだ。今日は久しぶりにゆっくりすることが出来る。それが何よりも嬉しくて鍵がかかっているかも確認せず、勢いよく扉を開けた。 「樹!ただい、ま……?え?」 入ってすぐ、いつもなら笑顔で迎えてくれるはずの樹がいなかった。いや、正確に言えば樹はいた。廊下の上に、倒れたまま。喉がヒュッと鳴ったのが分かった。声が思うように出せず、やっと出た彼の名前は裏返っていた。 「い、樹!?ちょっと、大丈夫!?樹!?」 肩に背負っていたカバンことを忘れ、大きな音を立てながら近付いた。うつ伏せに倒れたままの彼を仰向けにし、肩を揺らす。すると、「ん……し、おん……?」と微かに聞こえた樹の声。目を薄っすら開けているようだが、眩しいのか目を上手く開けれていない。 「樹!?よ、良かったぁ……」 「あ、れ。俺、帰って来てから……それで、あれ、どうしたんだ……?」 「廊下で倒れてたんだよ!?本当、心臓止まるかと……」 樹が痩せて来ていたのは分かっていた。しっかしとご飯食べるように言ったし、ちょっと大変だけどお弁当も作ったりしていた。彼は「ありがとうな」と笑ってくれるが、その笑顔も辛そうで見ていられなかった。なのに、何でこんな事になってしまっているの?誰が彼をこんな目に?私が、私が助けられたら…… 「紫苑。そんな顔しないで?」 「え?」 「ほーら、眉間にシワが寄っているよ。大丈夫、俺なら平気だから」 な?と言った樹は私の頬を優しく撫でる。微かに感じる彼の体温は、少しずつ戻って来ているようだった。ひんやりとしていた彼の体温を感じなくなったことに胸をなで下ろす。何とか立ち上がろうとする彼はバランスを崩すが、私はすぐに支えた。そして、やっと彼が軽くなっていたことに気付いて心がギュッと握り締められた感覚がした。 「……ねぇ、樹」 「ん?」 「もし、もしさ。その人がいなかったら、樹は幸せ?」 心の底から出た言葉は、それだけ。目の前でネクタイを緩めている彼は、少しだけ考える素振りをする。外し終わったネクタイを手に持って彼は苦笑いしながら言った。 「そう、かもね」 詰まったように言った彼の声は、かすれていた。その後、「さ、ご飯にしよう!」と嬉しそうに私の手を引っ張る。心の中でドロドロと湧き出てくる黒い物。彼の笑顔に釣られるように私も笑おうとするが、嫌に顔の筋肉が引きつった。 必死に自分の黒い物を内側に見えないようにしまい込む。これ以上、酷くなる事はないだろう、そう自分に言い聞かせて夕飯を一緒に楽しむことにした。 そんな、私のささやかな願いがあっという間に崩されるなんて、誰が考えただろうか。 この時程、神様はいないんだと実感した瞬間は今までも、これからも、無いだろう。 「……え?今、何て……」 「樹さんですが、過度のストレスにより統合失調症と診断されました」 「な、何で、どうして」 「……恐らく、長い間精神的、肉体的なストレスを与えられていた所為でしょう。心当たりはありませんか?」 「そんなの……」 会社に決まっている、と言いかけた時だった。彼のあの言葉を思い出したのは。 今、私達がいるのはここら辺では一番大きな病院。心療内科に来ている。目の前には目尻が垂れており、いくつかシワが見える男性が座っている。いかにも病院っぽい訳ではない診察室は近代的だ。天井から感じる暖かな光が、私の目には煩わしいと思った。 何で、どうして。彼がこんな目に遭わなければいけないの。何処で間違えたの。頭の中に巡る言葉はこれだけ。何て返そうか迷っていると思われたのか、「そうですね」と話を続ける。 「これからの事を話しましょう。彼と一緒に暮らしているのならば、貴女の協力も必要に練って来ます。よろしいでしょうか?」 「はい……お願い、します」 カラカラと扉が開く音が聞こえた。振り返ると、数ヶ月前の彼と同一人物だとは思えない姿をしていた。いや、私はさっき見た。仕事が思ったより早く終わり、あの日のように真っ直ぐに帰って来た。灯りは点いていなかった。 しかし、樹が今日の朝あまり体調が良くないと言っていたのを思い出して、体に優しいものを作ろうと思っていた。そう、思っていたのだ。鍵を入れて回すと、息が止まった。呼吸をするのを忘れてしまったのだ。そして、次に出て来た言葉は「いつ、き……?」だった。 彼は、樹は、この前と同じようにスーツ姿で倒れていた。反応が全く無かった。口から何か溢れているのが見えたが、それどころでは無かった。手先から体温が下がっていくのを感じた。 急いで駆け寄ったが、もちろん返事は無い。震える手でスマホを持ち、救急車を呼んだ。そこからはあっという間で、数日入院した彼は少しずつ良くなって行った。だが、良くなったのは体だけで、心はとっくに壊れていた。 「……これで以上です。薬はしっかりと量を守ってくださいね。では、次の診察は来月の同じ日にちで良いですか?」 「……はい」 「分かりました。では、受付でお待ちください」 ありがとうございました、と軽く頭を下げてお礼を言う樹。その声にも生気を感じられない。まさに、死んでいるように生きている。その言葉が当てはまった。横で聞いていた私も軽く頭を下げるが、言葉なんて何も出て来なかった。出て来るのは、『何で、彼なの?』だけ。恨み辛みを誰に言う訳でもなく、彼を責め立てる訳でもなく、ただひたすら自分に問いかけていた。 「……紫苑?どう、したの?」 「え?」 「ほら、眉間にシワ、寄ってるよ?」 ふわりと、彼が笑いかけた。いつもの、あの優しくて温かい微笑み。真っ暗などん底にいる私に、冷え切った心に吹きかける温かい風にじわりと沁みた。自分の方が辛いのに、何で私にそんな笑顔で気にかけてくれるの?あなたは、優しすぎる。他人にも、私にも。みんなに平等に温かい。 「え、紫苑!?な、何で泣くの!?」 「うっ……ひっく……ごめ、ごめん、ねぇ」 「な、泣かないで〜!」 泣きたいのは樹の方なのに。私が泣く資格なんて無いのに。涙が止まらない。止まってくれない。ボロボロと他にも人がいる受付で泣いている私を、必死に彼は服の裾で涙を拭ってくれる。「そんなに拭ったら目が真っ赤になるじゃん」なんて、口を尖らせると、「ふふっ それでも俺は、君が好きだから」と言った。嬉しさと、喜びと、申し訳なさと、色んな感情がグチャグチャにかき混ぜて出て来る涙は、樹の名前が呼ばれるまで止まらなかった。 それから樹は、仕事を辞めた。 もちろん理由は病気。それを聞いた上司はこれでもかってくらい叫んで罵詈雑言を浴びせたとか。しかし、すでに疲れ切っていた樹には何も響かなかった。そう、彼が自分で言ってた。笑いながら。私は彼を支える為に仕事を更に頑張った。 そして、彼を喜ばせる為に一つ、サプライズをしようと考えていた。彼の喜ぶ顔を想像すると、どんだけ嫌な仕事でも頑張れたし、面倒な準備も捗った。そして、彼の誕生日が来た。 ケーキを用意し、部屋の飾り付けもした。ひとつひとつ手作りをして、料理も樹の大好きな物ばかり作った。誕生日プレゼントは、前から欲しかったと言っていた時計と、もう一つ。少しの間彼に外で時間を潰してもらったのだ。準備が終わった後、スマホで彼を呼び出す。 「樹!もう戻って来て大丈夫だよ!」 「はいはい、すぐに戻るよ」 興奮を抑えきれない私になだめるように返事をした彼は電話を切った。私は手にクラッカーを持ち、玄関へ小走りで向かった。数分後、ガチャリと開いたドアに向かって勢いよく紐を引いた。 「樹!誕生日おめでとう!」 「うわ!もう、ビックリしたじゃないか〜!」 「ごめんごめん。これ、一回やってみたくてさ!」 「そんな事だろうと思ったよ。まぁでも、ありがとうな」 私の頭に手を乗せて撫でる。その心地良さに口元が緩む。まだまだこれからサプライズがあるのに、どんな表情をしてくれるのだろう、と心が踊った。 「ほら、中入って!早く早く!」 頑張った飾り付けを見て欲しくて、まだ靴を脱いでいない彼の腕を引っ張った。樹は嬉しそうに「こらこら、ちょっと待ちなさい」と言って靴を脱いだ。急かす私を怒ることなく、笑みを絶やさない彼は、少し元気になった。痩けていた頬もふっくらし始め、健康な体型になりつつある。 「ジャーン!これ、欲しがってたでしょ?」 「うお!俺が欲しいって言ってたやつじゃん!覚えててくれたの?」 「もちろん!」 ブランドのロゴが入っている箱を渡すと、中を開けて驚いている樹。ガサガサと音を立てながら出した後、色んな角度から時計を眺めていた。頑張った甲斐があった。これで、彼がもっと元気になればいいな、そう思い次のサプライズを発表するためにリモコンを持った。 「あとね、もうひとつプレゼント!」 「え?まだあるのか!?」 「うん、これだよ!」 ポチッと電源を押すと、そこそこに大きいテレビに映ったのは一つのニュース。 「……え?」 ガンッと床に時計が落ちた。そこそこ良い値段のするそれを落としたのにも関わらず、反応しない樹。彼の視線の先に映っていたのは、大々的に放映されている一つのニュース。そこには、こう書かれていた。 「会社員、樋口陽介さんが、何者かにより殺された……?」 「そう!ほら、この人って樹の元上司でしょ?私がね、処分しといたの!」 私は、彼が喜んでくれるに違いないと思っていた。ここまで酷いことをされたのだから、のうのうと相手が生きているなんて耐えられないはずだ。でも、彼がそんなことする必要はない。私が代わりに殺してしまえば、彼は楽になるのだから。 これが、私の最大のサプライズプレゼントだ。 「あれ、樹?元気ないよ?どうしたの?」 「……紫苑、お前……人を、殺したのか?」 彼の視線は、テレビをずっと見ている。テレビの中では数人のコメンテーターが議論しているようだが、耳から入って来るのは『樋口陽介が死んだこと』と『誰かに殺された』と言うこと。繰り返し流されるニュースは緊急速報のようで、下のテロップに『速報』と書かれていた。私は彼の反応が気になって、テレビから目を動かして樹を見た。 「樹?何で、泣いてるの?」 彼は、目から一つ二つと涙を零していた。ピクリとも動かない彼の表情筋の上を流れていく雫は、床に落ちた。嗚咽を出すこともなく、ただただ涙が流れているだけ。私は、樹が泣いているのか理解出来なかった。何度か名前を呼んだら、「……で」と掠れた声が聞こえた。 「何で、こんな事を、してしまったんだっ……」 「え?い、樹?どう、した……」 「俺の為に、殺したの?」 見つめていた画面から顔をゆっくりと動かし、私を見つめた。真っ直ぐに、よそ見をする事なく私の目だけを見て、顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。先程まで動いていなかった彼の表情筋は歪な形で動いた。 私は彼の質問に答えようとしたが、思ったように声が出なかった。何かが喉に詰まっている感覚。しかし、目を逸らさない彼に向かって答えない訳にはいかないので首を縦に振った。 「そう、なのか……」 「樹……?」 「俺の、俺の為に人を殺さなくても良かったじゃないかっ……!自分の、俺の為に、俺の愛する人が殺人を犯して欲しくなかったんだ……!」 振り絞った声は、テレビの音声よりも部屋の中に響いていた。やけに遠くに聞こえるテレビの音で私は確信した。 あぁ、これは失敗だったのだ、と。 私は、愛し方を間違えてしまったのだ。とんでもない間違いを犯してしまったのだと気付いた。鼻水を垂らし、目と鼻を真っ赤にしている樹は両手で手を覆って咽び泣いていた。手の間から溢れる雫は、フローリングの上に小さな水溜りを作る。私の視線は、いつの間にか彼ではなくその作られた水溜りに向けられていた。 「……紫苑。引っ越そう。もう、ここにはいられない」 「え?ど、どう言う……」 てっきり私はこのまま捨てられるのだと、そう思っていた。間違った愛し方をしてしまった私に構う余裕なんて彼には無い。自分の犯した罪と向き合って、自省をするべきであると、この一瞬で悟っていたのに。彼は、覆っていた顔から涙を全て拭き取り、私を見た。 その目は一筋の光も見えない真っ暗闇。私が、この色に変えてしまった。その責任があるのにも関わらず、彼は私をどうすると言うのか。 「俺は、それでも俺は、君を、紫苑をずっと愛すると決めたんだ。……だから、もう二度と、二度と、こんな事をしないで」 私を見据える彼の目の中には、私しか映っていなかった。彼を見て、私はただぎこちなく頷いた。あぁ、これがきっと、私に対する最大の罰だ。愛する人を、愛してくれる人を裏切った罰だ。どんな罪よりも重く、暗く、一生逃れることの出来ない罰。一瞬にして自分の体と心に巻きついた鎖は、二度と私を自由にすることはないのだろう。
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