30人が本棚に入れています
本棚に追加
ここは俺が俺らしく振舞える場所。小さな雑居ビルの薄汚いエレベーターホールに辿り着くと、ひとつ息をついて肩を上げ下ろしし、ボタンを押した。自分が自由に呼吸ができる場所に入る前の、小さな儀式だった。
「めぎつね」のプレートがかかった重い木の扉を開けると、カラカラと鐘が鳴り、黒いドレスの女、いや、美しく装った男が笑顔で晴也を迎えた。晴也も満面の笑みで挨拶する。
「おはようございます!」
「ハルちゃんおはよう、今日もよろしく~」
英子ママはいつも晴也に優しい。この仕事を始めようと決心し、ここを初めて訪れた時から、いろいろ手取り足取り教えてくれた。
晴也がバックヤードに回ると、鏡に向かっていた先輩たちが、朗らかにおはようと声をかけてくれる。ミチルさんと麗華さん。本名は知らない。普段何をしているのか、ぼんやりとは認識しているが、確認はしない。晴也は眼鏡を取り、ワンデーのコンタクトを用意した。
「ハルちゃんはマジ肌がきれいだよね、ほんと羨ましい」
「最近寝不足が続くとだめです、今日もおでこに吹き出物が……」
「そうなの? カーラーあっためてるから前髪巻いて隠せば?」
女子トークをしながら、晴也はスーツとワイシャツを脱ぎ捨てる。紙袋から出したのは、シルクのキャミソールと、白地にオレンジとピンクの淡い花柄が美しい、膝丈のワンピースだ。わあきれい、と先輩たちから声が上がり、嬉しくなる。
無粋なシャツを脱いで、シルクの感触を楽しみながら真っ白のキャミソールを身につける。ワンピースに袖を通すと、テンションが一気に上がる。これが着たくて、昨夜は風呂で念入りに腕と腋の毛を剃った。
「色白のハルちゃんがそんな恰好したら女神だね~」
「ミチルさんだって色白じゃないですか、俺は青って似合わないけど」
ミチルのスカイブルーのワンピースを見ながら、晴也は言った。青系が似合うのは、大人の女っぽくて素敵だ。麗華はその源氏名の通り、華やかな赤系のドレスが似合った。ドレスに合わせたメイクも上手で、憧れる。
晴也はホットカーラーを前髪に巻きつけてから、ポーチを出して化粧を始める。下地を丁寧に塗り、リキッドファンデーションをスポンジに取って肌に伸ばす。この作業にもだいぶ慣れた。くたびれた自分の顔が艶やかなものに変化していく喜び。今日は可愛らしく、ピンク系のアイシャドウを瞼に乗せ、マスカラも茶色で。晴也は睫毛が長いので、つけまつげは要らない。アイブロウは優しい感じでいこう。ブラシを使って、眉頭をぼかしていく。
「クリスマスのコフレってどこのを買う?」
「口紅の色が選べるブランドがいいなぁ」
「通販系って結構面白いですよ、ファンデーションついてるのとかありました」
「いいね、ポーチなんか要らないから新しいファンデ試してみたい」
鏡の前で各々唇に色を差しながら、3人の男は化粧品の話に花を咲かせる。ママが開店の声を掛けると、晴也はストッキングの足をクリーム色のパンプスに入れ、本当の自分に変わった時間を目一杯楽しもうと気合いを入れた。
女装バー「めぎつね」の可愛らしい系ホステス、ハル。それが晴也の夜の肩書きである。
最初のコメントを投稿しよう!