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3 顕現
次の日、覚めぬ興奮を持て余しつつ出勤した晴也は、昨日来た食品輸入会社の担当が、午後に早速書類を持ってくると課長から聞かされた。
「興味持ってくれそうな小売店とか個人商店、ピックアップしておいてやってくれ」
晴也は低くはい、と応じ、会社の資料フォルダを開く。ちょっと面倒くさかったが、昨夜の高揚した気持ちを糧にしてマウスを動かした。罷り間違っても、周囲に何か悟られないように。
14時ちょうどに応接室に来たのは、昨日の地味な営業担当と、外国人の社員だった。彼女はインドネシア出身で、輸入に関する事務作業を担当しているという。営業担当は昨日も来たので、晴也は今日はほうじ茶を用意した。
営業担当の作った資料は見やすく親切で、丁寧な説明に課長も満足そうだった。インドネシア人社員は朗らかで日本語が堪能だ。ただ晴也は、彼女が茶にほぼ口をつけていないのが気になった。
ふと、めぎつねに来た在日のマレーシア人が、緑茶は苦手だと話したことを思い出した。ほうじ茶も、外国人の口に合わないかも知れない。
商談が一段落して、仮契約書の作成に入る前に、晴也は客人の湯飲みを引いた。営業担当はほうじ茶を飲み干していた。
給湯室でティーカップを用意する。コーヒーは昼食後に飲んだかも知れないから、紅茶を出そうと思った。ティーバッグの外包みを開けた時、音もなく誰かが傍に来た気配がして、晴也は驚いて振り返った。
「……えっ!」
客人の営業担当者の銀縁の眼鏡が視界に飛び込んできた。びっくりさせるなよ。晴也は胸を撫でおろして、彼に言った。
「トイレはここを出て右です」
しかし彼は、ちょっと口許に笑いを浮かべただけで、そこを動かない。晴也は困惑した。
「……えっと……何か御用ですか」
「……ハルさん」
晴也は今度こそ仰天した。ハルって呼ばれた? 店に来たことがある人か? バレた? 混乱して言葉が出ない。とにかくとぼけなくては、認めるわけにはいかない。
彼は2歩晴也に近づいた。晴也は本能的に危険を感じて後じさったが、流し台に阻まれる。しゅんしゅんと湯が沸き始める音以外、何も聞こえなくなった。給湯室はひんやりしているのに、腋の下に嫌な汗が滲む。彼は長い前髪の下から眼鏡を引っこ抜くように外して電子レンジの上に置き、目を細めて言った。
「嫌だな、昨日の夜会ったばかりなのにもう忘れた?」
「俺は昨夜出かけてないです、人違いじゃないですか」
「……間違わないですよ」
言うと彼はいきなり晴也の右手を掴んだ。ひゃっと勝手に声が出た。振りほどこうとしたが、力が強くてびくともしない。
「この黒子……」
彼は晴也の手を持ち上げ、甲に視線をやった。薬指と小指の間の黒子を見ている。続いて彼は空いている右手で前髪を少し上げてみせた。
「ショウです、昨夜俺のこと気に入ってくれたと思ったの、勘違いでしたかね」
「はっ? ショウさん?」
マジかよ! 晴也は叫びそうになるのを辛うじて堪えた。軽く見上げる身長、黒い髪、切れ長の目。腕や肩の筋肉は服の下で分からないが、確かにショウのような気もする。だが確信が持てない。
彼の瞳はやたらに光が強く、晴也は肉食獣にロックオンされた草食動物のように硬直した。そしてようやく晴也は、昨日受け取った名刺に書かれていたことを思い出す。目の前の男の名は吉岡晶、名前を音読みすると「ショウ」ではないか。
「俺と交際してくれませんか?」
「はぁっ⁉ 何言ってんの、そういう冗談は夜だけにしろよ」
ショウこと吉岡晶の言葉に驚愕し、晴也の声が高くなった。ヤバい、誰かに聞かれたら身の破滅だ。
吉岡は晴也の右手を捕らえたまま、続ける。
「ハルさん……福原さんめちゃ俺のタイプなんです、昨日お茶を出してくれた時に絶対モノにすると決めました」
「おっ、おまえ馬鹿か、頭と目がイカれてるだろ、今すぐ病院行けっ」
晴也の顔に一気に熱が集まる。タイプだなんて、生まれて初めて言われた。男からの言葉でもどきどきしてしまうが、非モテに対する冗談としては悪質だ。
「昨夜ステージを観に来てくれたきれいな女装男子があなたに似ていて……まさかと思ったら手に黒子があった、もう俺眠れなかったんだよ」
吉岡は勝手に喋って、律儀にも、お湯が沸いているのを見てコンロの火を止めた。長い腕に囲われる形になり、晴也は身体をのけぞらせる。さっきより彼の綺麗な顔が近い。頭がくらくらした。
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