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「かっ、からかうのやめろよ、大体俺はゲイじゃない」
「そんな嘘ついて拒むなんて傷つくな」
「俺は女の恰好をしたいだけでゲイじゃないし、筋肉に興味も無いって! 昨日はミチルさんにつき合っただけだ」
「じゃああなたが俺を色っぽい目で見て、また観に来るなんて言ったのも、俺をからかったってことか」
「自分と一緒にするな、昨日はほんとにあんたがかっこいいと思ったから……」
吉岡が至近距離から全く目を逸らしてくれないので、晴也は羞恥と恐怖で泣きそうになった。意を決して口を開き、震える声で言う。
「とにかく俺の夜のバイトのことは誰にも言わないで、黙っててくれるならアレ抜きでつき合ってもいい」
「俺はあなたを脅しに来た訳じゃない」
この体勢で脅していないなどとよくも言えたものだ。だが続いた吉岡の言葉は意外だった。
「夜のバイトを周りに隠してるのは俺も一緒だ、半裸で踊ってることもゲイだってことも会社では秘密にしてる」
「……へ?」
「でも辞めるつもりはないのもあなたと一緒だ」
晴也は僅かに身体の緊張を解いた。すると吉岡は、壁ドンならぬ流し台ドンの姿勢を崩してくれた。
「俺は昼間のあなたに惚れてるけど……夜の姿も生き生きとして綺麗だから好きだ」
晴也は一瞬息を止めた。秘密を持つことに共感してくれる。それに夜の俺を認めてくれるのか。
吉岡は捕らえたままの晴也の右手を自分のほうに引き寄せ、黒子のあるところに形の良い唇を近づける。晴也は咄嗟に手を引っ込めようとして、やはり強い力で阻まれた。押しつけられた温かく柔らかい感触に背筋がぞくぞくして息が上がったが、それは不思議と恐怖や嫌悪感を伴うものではなかった。
「これ……アガタのために用意してるんだよね?」
吉岡は晴也の右手を解放し、背後の二つのティーカップが載った盆を覗き込んで言った。
「彼女は日本茶が苦手なんだ……昨日も熱過ぎずぬるくないお茶が美味しかった、そういう気遣いが痺れる」
あの女性はアガタというのか。晴也は熱くなった顔を伏せた。やっと吉岡の拘束から逃れてほっとしながらも、強い視線に縛られた余韻や、右手に残るあらゆる感触が、胸の底に甘ったるく溜まるのを感じる。
吉岡は口調をくそ真面目なものに変えて、言った。
「驚かせて申し訳なかったです、会社の名刺にもめぎつねの名刺にも書いてなかったから、プライベートの連絡先教えてください」
「……今は無理です、スマホ下の部屋なんで」
「じゃあ今夜店に行きます」
来るな、と言いかけてやめた。吉岡が勝手にコンロの火を点けると、すぐにやかんの口から湯気が立ち始めた。
「明日は俺が踊るのを観に来てくれますか?」
問われて晴也は口籠った。吉岡がやかんを取り上げ、ティーカップに湯を注ぐ。
「……行きます」
そう答えると、紅茶の香りが給湯室に広がっていくのと同じ速さで、晴也の身体の中でピンク色の綿菓子のようなものが膨れ上がった。
眼鏡をかけ直した吉岡が、微かに頬を染めてにっこりと笑う。ああ、ほんとにショウさんだと、胸がきゅっとなった。
3分後、晴也は客人に紅茶を出した。アガタが美味しいと言って喜ぶのを見て、吉岡とほんの一瞬視線を交わした。その行為は、昨夜の高揚感と先ほどの給湯室での困惑が、夢でないという証拠だった。またそれは、晴也にとって未知なる何かの始まりを告げるものかも知れなかった。
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