紅く染まる桜

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俺がその声を聴いたのは、 夜が明けきらない冬の朝のことだった。 花も葉もない桜の樹は、 星が残る寒空に枝を伸ばしていた。 まだ届かぬ春に向かって懸命に。 それはまるで空に張り巡らされた血管のようだ。 一昨年、会社をクビになってから、 俺の存在は、社会からずっと否定され続けている。 何をしてもうまくいかない。職も変わった。 こうなると、陽気に咲き誇る桜すら憎くて恨めしい。 今年はこの樹を見上げることもできなかった。 しかし、今はどうだろう。 北風にふき晒され、丸裸になった桜を見上げて気づく。 枝が血管だとしたら、紅い花びらは血液だ。 いつかこの桜が、道を紅く染めるとき 樹は啼くのだろうか。 細い枝の先からこぼれ落ちる花びらに 身を引きちぎられるような、声にならない叫びをあげて。 俺には聴こえた。 桜の樹の叫びが。 いや、違う。 これは俺のうめき声だ。 見てろ。 俺は独り、先に逝く。 この重い身体を脱ぎ捨てて、 今度こそ、あの空に昇ってやる。 朝日がさす頃、通りがかった誰かが 樹に吊るされた俺に目をとめるだろう。 そいつはきっと、桜を見上げるたびに 俺の抜け殻を思いだすことになるんだ。 そうだ、誰でもいい。 誰かの桜の記憶を、全て俺の存在で塗りつぶしてやる。 …気がつくと、俺は堕ちていた。 もう少しであの空に届くところだったというのに。 なんだよ、桜め。 おまえまで俺の存在を否定するのか。 仕方なく首の絞めつけを緩めようとしたとき、 それがただのロープではなかったことを知る。 俺の身体に絡みつくのは、忌まわしい桜の根。 …あぁ、そうか。 俺はまた逝けなかったのか。 あの朝から俺は、桜の樹に絡めとられ、 未だ空に還ることができないでいる。 自らの死で桜を穢そうとした俺を、樹は赦さなかった。 抜け殻となった俺の躰に触手のように根を這わせ、 養分を与えては、永遠に蜜を吸い続けているのだ。 …今年もまた春がくる。 俺は身を裂かれ、花を咲かせて散らす。 手をいくら伸ばしても、掴めない虚空を切るばかり。 どんなに啼いても届かない。 もう、誰にも聞こえない。 空に還れない俺の叫びは。 すでに桜の樹の一部となってしまった身体の先端が、 紅く色づき、固かった蕾がふくらみ始めていた。
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