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信号が赤に変わって、和泉はブレーキをきつく踏み込んだ。
秋の風に、よく身の膨らんだ稲穂が揺れているが、和泉はその情緒に感動は覚えず、ハンドルを四指で叩く。いつまで経っても信号は青にならず、苛立ちはピークに達した。
さっきの会話が腹立たしい――
「もっと、図々しくしてもいいのよ。だって、小夜ちゃんも、この会社の創業者なわけだし」
(まあ、これは社交辞令なんだけどね。あなたが創業者な訳がないじゃない。沖広くんが言うから、仕方なく創業時のメンバーに名前を入れてあげただけなのよ)
「いえいえ、とんでもありません。私なんか、お茶を汲む以外、何のお役にも立てておりませんので」
(そりゃそうよ。その通りだわ。少しは何かの役に立つのかとも思っていたのに、あなたは、愛想よく、人受けが良いだけじゃない。それなのに、常盤から打診された愛人関係も拒絶するし、私がそのとばっちりを受けたのよ。私がどんな思いをして、事業を成長させてきたかって、考えたことある?)
「今日は、結婚記念日なんでしょ。楽しんでらっしゃい」
(子供が出来たからと言って、沖広くんに結婚を迫ったらしいけど、一年経った今でも赤ちゃんがいないって、どういうことよ!? 妊娠したなんて、嘘だったんでしょ? どうして、そんな悪知恵が働くのよ、この小悪魔め!)
「はい。私たち、ハネムーンにも……」
(ハネムーンに行こうとしていたの!? ふざけないで! 私があの薄らハゲのちびデブのお相手をしてたから、あなたたちの給料が出たのよ)
その給料で、自分たちだけ幸せな旅行に行こうとしていたなんて――
信号が青に変わり、アクセルを踏み込む。改造しているので軽自動車でも、加速はいい。
事業を始めた頃、作業場で沖広と二人きりになり、小夜のどこに惚れたのか、ストレートに訊いたことがあった。その時、沖広が、小夜は可哀そうなヤツなんだと語ったことを今でも覚えている。
幼い頃から父親の暴力を受け、中学時代に両親が離婚して極貧生活を送り、キャバ嬢になってからも男に騙され、金を巻き上げられていた。
そんな小夜を放っておけないのだと、沖広は言った。渋い顔をして言っていたのだ。
和泉の運転する車が、高速道路のインターチェンジに入る。交通量は少なく、オービスもしばらく無いので、和泉はアクセルをベタ踏みした。
沖広の琴線が、不幸な女に触れるのであれば、和泉こそ、会社の犠牲者であり、それをわかってほしいという思いが沸き立ったのは一か月前。
和泉は、自分が常盤の愛人にされていることを告白した。
沖広は、想像だにしていなかったようで、目を見開いて驚いていた。
あの時から、沖広の心が和泉の方に振れたように思う。沖広は、可哀そうな人間に、手を差し伸べずにはいられない性格なのだ。
結婚をして、ハネムーンに行けない不満を口にする小夜よりも、反吐が出るほど嫌悪する愛人に抱かれ続ける和泉の方が、もはや不幸だと言えた。
沖広は、全身全霊を捧げ、和泉のことを助けると約束してくれた。何でも協力すると。
和泉は左手でハンドルを操り、右手を口元に当て、クククと笑った。
(シャトルの打ち上げが迫ったあの時、未来が確定したのよ)
夜更けまでに、自宅に着きたい。
―― シャトルの打ち上げが迫った時、宇宙服を着た沖広が、のっしのっしとドックから出てきた。
「社長、お見送りですか? わざわざ、ありがとうございます」
「当たり前じゃない。あなたたちの記念日だもの。お見送りさせて」
遠くでシャトルに積み込む資材を見定めていた小夜が、沖広に気付いて駆け寄ってきた。
小夜が勢いよく沖広に抱きついたので、沖広は体勢を崩し、転びそうになる。
「ああ、小夜ちゃん。聞いていると思うけど、まだ、一般人の宇宙旅行は認められていないから、荷物と一緒に貨物室に隠れてね。今回の打ち上げは、あくまでも副社長が一人で宇宙に行ったことにするんだからね」
「はい、聞いています。木箱の中に隠れようと思ってます」
和泉が沖広の方に顔を向けると、沖広が、さりげなくウインクをして言う。
「じゃあ、社長、行ってきます」
「はい、気をつけていってらっしゃい。今夜は記念日を祝って、家で、ビンテージもののワインでも開けようと思うわ」
「はい、祈っていてください」
沖広がそう言った時、小夜は木箱の中に入り、身を隠した。
「今夜も綺麗な流れ星が見えるのかな。楽しみだわ」
【完】
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