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和泉は、通信を切ってヘッドセットを外し、机に置いた。
社長室はガラス張りで、従業員らがせわしなく働いている様子がよく見える。ここから見えるだけでも、ざっと三十人近くはいる。ベンチャーを立ち上げた時には、沖広らと三人で心許なかったが、ここまできたかと、目頭が熱くなった。
この会社は、和泉と同じ大学の宇宙工学部で、稀代の天才としてひときわ目立っていた沖広を誘って立ち上げた。
沖広の卒業研究では、超小型水素ブースターの開発に成功し、実際に、自作ロケットを成層圏の外側にまで飛ばしていた。居住型人工衛星を研究していた和泉とテーマの相性もよく、沖広さえ協力してくれれば、ビジネスができるんじゃないかという直感が働いた。
あの時の予感は正しかった。
そして、和泉は、ビジネスに関する臭覚が人より優っているのだと、自認している。ここまで事業を大きく出来たのは自分の能力があってのことだと自画自賛し、自然と頬がゆるむ。
「小夜ちゃん、今、いい?」
社長室の扉を開け、席で暇そうにスマホをいじっていた小夜に声を掛け、コーヒーを入れてくれるようにお願いした。小夜は、はっきりと作り笑顔だとわかる表情を見せて、給湯室へと向かった。不本意であることは、風を切るように歩く後ろ姿からもうかがい知れる。
創業メンバーのもう一人が小夜だった。小夜は、沖広のバイト先の知り合いで、当時から沖広と小夜は付き合っていた。
和泉が、ビジネスパートナーとして沖広を誘った時、受ける条件が、創業メンバーに小夜を加えることだった。
沖広のバイト先というのはキャバクラで、小夜は、いわゆるキャバ嬢だった。
沖広は優しい性格だったので、彼女の将来を案じて、定職に就かせるサポートがしたいのだと思った。
ドアがノックされ、トレーにコーヒーカップを乗せた小夜が入ってきた。
「小夜ちゃん、ありがとう」
「いえいえ、とんでもないです。これが秘書室長の私の仕事ですから」
小夜は、コーヒーカップを置きながら、愛嬌のある垂れ目をさらに垂らして笑う。
どこまでが本心か分からない。和泉は、小夜の笑顔をそのまま受け入れられなくなっていた。
「沖広副社長から、さっき連絡があったわ。無事にステーションに着いて、ミッションをクリアしたって。予定通り、今晩には戻ってくるわよ」
小夜は宇宙でのミッションに興味が無いので、今回も何をするのか伝えていない。ただ、この会社に宇宙飛行士は沖広しかいないので、毎度、彼にお願いするしかない。
小夜の旦那さんに、お願いするしかないのだ。
「そうなんですね。それは良かったです。いつまで経っても、宇宙に行った人を待つことに慣れないんです。いつも、気が気でないんです」
小夜は空いたトレーを胸に抱え、首をかしげる。アンニュイ表情にアヒルのように尖った口。キャバ嬢で慣らした技なのか、男どもが魅了されてしまうのも頷ける。
そのうち別れるんだろうと踏んでいた、沖広と小夜のカップルが意外にも長続きしたのは、男心をくすぐる、こうした小夜のテクニックのためだろう。
それでも、結婚にまで至るとは思わなかった。
いわゆるデキ婚だというので、致し方ないのかもしれないが、沖広が願っていた結末とは違っていたのではないかと、今でも気になっている。
「小夜ちゃんたちが結婚して、まだ一年も経ってないのに、何度も寂しい思いをさせてごめんね」
小夜が、ぶんぶんと首を横に振った。
「仕事だからしょうがないと割り切っています。ただ、毎回、気を紛らわすのに苦労しています。だって、いつトラブルが起きて、不幸な目に遭うのかわからないから」
小夜が社長室から出ていくのを見届けてから、和泉は、コーヒーを一口すすった。
ひどく苦かった。
それが、わざとかどうか、和泉は判断に迷った。
ベランダに出て、夜空を眺めているとスッと一筋、流れ星が流れた。まるで、和泉の涙が夜空に流れたようで、胸が熱くなる。
和泉は、グラスに入れた赤ワインに口をつけると、手すりを背にしてリビングの方を向いた。
昨日までは無かったゴミ袋が山積みされている。仕事から帰って片付けた成果である。
ふと、捨て忘れているものに気付いて、洗面所に入った。
並んで立てられた歯ブラシの一つを手に取り、鏡に向かい合う。達成感もあり、喜びに満ち溢れているとばかり思っていたのだが、どちらかと言うと、悲壮感が漂っている。肌にハリや潤いが無く、年齢以上に老けているように見えた。
「これから、新しい未来が始まるのよ!」
バキッ。
鈍い音がした。和泉は、歯ブラシを二つにへし折っていた。
折れた歯ブラシの柄に書かれた『トキワ』の文字はくっきりとしていて、油性インキですら憎らしかった。
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