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「ああ。海の香り、海の音!」
口から入って喉に滑り落ちた冷たい空気。それは海の香りをまとってる。
耳を澄ませば、静かで穏やかな海の音が聞こえる。
ざぶん、ざぶん。それは宇宙が地球を引っ張ってる音である。海は揺れる、音をならして水を跳ねさせて。
……亜美と悟郎、川田の住むこの海側町は、広い海にぽつりと浮かんだ、小さな離島の上にある。
「ゆれっから! 亜美さん、口閉じてろよっ」
車の窓から顔を出して、川田が叫ぶ。亜美は手を大きく丸の形にして子どものように笑って見せる。
激しく車が揺れるのは、地面が恐ろしくガタガタだからだ。
配給が始まるよりずっと前から、公共工事は全てストップした。
アスファルトの工事も、建物の補修も、何もかも。ずっと昔に消えてしまった。
今はゆっくりと皆、土に戻ろうとしている。その最中。
亜美は頬に打ち付ける鋭い風を感じながら、空を見上げる。
真っ青で美しい空。目の前に広がるのは、乾いた大地に、壊れた標識、崩れた家。
その合間に、ちゃんと残っているアパートや、家。看板の傾いた商業ビルに、シャッターの壊れた古い電気店。
そしてさびて倒れたバス停の、その横に上品そうな婦人が一人、立っていた。
「こんにちは」
声をかけて、亜美はトラクターの後ろから飛び降りる。
川田は盛り上がった筋肉を見せつけるように、腕を窓の外に出したまま去って行く。ぼこぼこと、黒い煙を吐き出すトラクターのお尻が、やがて道の向こうに消えていった。
「あなた島の方?」
綺麗な紫のコートに身を包んだその女性は、もう70歳をこえているだろうか。
亜美は彼女の横に立って、微笑む。
「見学の方ですよね。この辺りは足場も悪くなってますからお一人では危ないですし、ご案内しましょうか」
彼女は優しそうに目を細め、悲しそうに周囲を見渡す。
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