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亜美は近くに転がっていた自転車を起こす。ブレーキやタイヤをざっと見て、後ろの荷台を袖で拭く。
「みんなが置いていってくれたのを修理して使い回してるんです。バスが無くても……ほら、レンタサイクルがたくさんあるから大丈夫」
自転車は、立派に大きいものだ。亜美はそれにまたがって斉藤を手招きする。
「自転車なんて、何十年振りかしら」
「運転は私がしますので、ご安心を」
彼女はおそるおそる、荷台に横向きに腰を落とした。そして亜美の腰をそっとつかむ。
「ここ、さわっても?」
「どうぞどうぞ、もっとぎゅっと、抱きしめてくれていいですよ。落ちると危ないので」
そういうと、彼女はころころと鈴が鳴るように笑った。
「こんなの、娘時代以来だわ」
「進みますね」
自転車をゆっくりと発進させる。ぎしぎしと、金具が擦れ合う音が響いた。潮風を遠慮無く受けた自転車はすぐに錆びる音を立てる。しかし、壊れることはない。
ようやく出て来た日差しが、黄色い地面に薄く影を伸ばした。
この古い乗り物は、ハイテクの乗り物よりずっといい。単純で、わかりやすくて、使いやすい。
今、この島にはそんなものだけが残っている。
「ここまで来るのに、東京から4時間かかっちゃった」
風を受けながら、斉藤はつぶやく。
二人の目の前に広がるのは、ところどころ生き残った農地と、崩れた建物だ。
真っ白な道の左右には緑の雑草が、古いアスファルトを突き破って伸びている。
古い電柱は傾きながらも天に向かって真っ直ぐ手を伸ばす。蔦のような植物が電柱を巻き取るように伸び、蔦の上に小さな鳥が止まっている。
その向こうに見える空は悲しいくらい真っ青で、白い雲が浮かんでいる。
彼女は、そういう風景を見るたびに、悲しそうに亜美の腰を強く握り締めた。
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