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「私ね、移住が決まったの。遠い……どこだったかしら、綺麗な星らしいけれど。もう整備されて長い星だから、住みやすいんですって。娘夫婦と、孫も一緒よ」
「良かったですね」
明るく声をかけると、彼女はほっとしたように顔を上げる。
「そう思う?」
気遣うように声が震えるのは、亜美に遠慮しているせいだろう。
「ええ。みなさん一緒に移住できるのは、一番幸せなことですよ」
「……でもねえ。いざとなると、故郷のことばっかり浮かぶの」
斉藤が肩をたたいたので、亜美は自転車を止める。
「ここにね、学校があったの。小学校と中学校が一緒になった……あなたもきっと、見たことがあるわよね。私も妹も、兄も通った学校よ。その横に、私の家があったの。父と祖母とその前の……ずっと古くからあるおうち」
彼女が指した場所は、何もない。広い広い平地だ。
崩れた廃材と、その隣にかつての講堂と思われる崩れかけた建物だけが残されている。
そして、道の端には大きな木が一本だけ。
彼女がかつての自分の家だ。と言った場所にももう、何もない。
亜美は自転車を乗り捨てて、地面に足を降ろす。目を閉じれば、小さな子どもの声が聞こえるようだった。
中学校の頃、亜美はこの島に越してきた。
ここにあった背の低い門をくぐった時のことを、亜美は今でも覚えていた。
多くの子どもの声と大人の声、綺麗なチャイムの音に、綺麗な建物。
……亜美ちゃん、と名を呼ぶ、懐かしい声。
亜美は残された木をそっと撫でる。大きな木だった。暖かくなれば、葉が恐ろしいほどに茂る。
この木の下から見える学校の校舎や街の風景を、亜美はいまだに覚えている。
「ありました。私も、一年だけ、通ってたから」
「……あったのよ」
彼女の声が少しだけ、湿り気をもっていた。
「あの、斉藤さん。こっち」
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