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亜美は堪えきれないように、彼女の冷たい手を引く。亜美が彼女を導いたのは、崩れた講堂の裏だ。
木と雑草が生い茂るその中に、まるで冗談のように青い固まりが、鎮座している。
それは雨よけの青いシートをかけられた、巨大なピアノなのだ。
斉藤の目が大きく見開かれた。
「……ピアノ!? 本物の?」
「もう潮風にやられて、音なんてカスカスです。でも木の根っこがピアノの足下に絡みついてて、引っこ抜くのも可哀想なので、このままに」
亜美は笑いながらピアノの前に置かれた椅子に腰を下ろす。
塩で白く傷ついたピアノの足には、木の根や雑草がしっかりと絡んでいる。もうまもなくで、風景と一体化してしまいそうなピアノである。
「ほら、本物のピアノですよ」
上にかけてあったビニールシートを取り払うと、黒い巨体が顔をみせる。亜美は優しく鍵盤の蓋を開ける。すっかり黄色く色が変わっているが、ピアノとしての形は整っている。
「調律は時々してるから、音だけはとれますよ。なにかお弾きしましょうか」
「まさか、あなた弾けるの?……こんな……古い、楽器を」
「ほんの少し」
斉藤は少し戸惑うように胸を押さえていたが、やがて小さな声で何かを歌いはじめる。
最初はたどたどしく、ゆっくりと、噛みながら。
それでもそれは何度も繰り返す内にひとつの旋律になる。繰り返される音に耳を傾けながら、亜美はゆっくりとピアノに指を乗せる。
音は、亜美の中に染みこんでいく。それは五線譜になり、頭に広がり、カスカスの鍵盤がカスカスの音を奏でる。
しかしそれは、確かに一つの音楽となる。斉藤の歌声とピアノの音は混じり合い、広がり、何もないその場所に確かに合唱が聞こえた。
多くの子ども達が奏でる合唱が、確かに聞こえた。
「校歌なの」
歌い終えた斉藤が顔を手で覆って、笑う。
「私も、弾きながら思い出しました。懐かしいです」
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