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あわてて謝る彼女を制して、亜美は大きく腕を広げる。
冷たいが、心地のいい風が吹いていた。
「……元々この場所は、夫の故郷でもあるんです」
亜美の周囲に広がる風景は、亜美自身にとって懐かしいものではない。
そこにあるのは、亜美の記憶になじみのない風景だ。
子どもの頃、この島で暮らしたのはたった1年。
その後に続く東京の記憶にその1年の暮らしは塗りつぶされて、今はふんわりとした思い出しか残っていない。
「だから、戻ってきたんです。東京以外のところに、いきたくって」
元々、ここは亜美の夫の……かつての夫の、故郷なのだ。
数年前、亜美は結婚の報告にここを訪れた。
たった数年だというのに、その頃と島の風景は随分変わった。もう少しだけ人が多かったはずだ。廃墟ももう少し少なかった。
あのときは、優しい義母が迎えてくれた。もう亡くなっている義父の墓に報告をして、おいしい海の幸を食べ、珍しくお酒なんて飲んで酔ってしまって、翌日は夫の入れてくれたおいしいコーヒーで目を覚ました。
……数年前が、亜美にとっては遙か昔に感じられる。義母は二年前に亡くなり、思い出は一つ途絶えた。
「世界は凄く大変ですけど、でもおかげで……夫が大好きだった故郷に帰ってくることができました」
微笑むと、斉藤も釣られて笑う。
「あなたの……声、すごく素敵ね。引き込まれるみたい。もっと話をしたかったわ」
斉藤の皺の寄った手が、亜美の手を撫でた。
「有難うございます。そんなふうに言ってくれるの、二人目です」
「あら?」
「夫です。斉藤さんが二人目」
斉藤の手がきゅっと、亜美の指を掴む。
柔らかい、手だった。
「……行かなきゃ」
彼女を迎えにきたと思われる大きな車が、道の向こうにみえた。
自動運転らしく、ぶれもなくまっすぐに無感動に向かってくる。
亜美は数歩、道から退いた。
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