bonus track 3

1/6

39人が本棚に入れています
本棚に追加
/88ページ

bonus track 3

 156516da-06f0-4b1b-9c76-39713151d11a  案の定満席の音楽科小ホール、立ち見まで出ているのは、これが佑木くんの最後の試験だからだろう。俺は運良く一番後ろの席に座れた。  今朝家を出る時「やれるだけはやった」と佑木くんは頷いて、母に丁寧にお礼を言った。母はそれはそれは名残惜しそうに「また絶対遊びにきてね」と佑木くんの手を取った。  学校に着くと、佑木くんは俺にも礼を告げて、すぐに練習室に入って行った。今までこんな風に練習室に進んで籠る佑木くんを見たことがない。それだけこの最後の試験はレベルが高いということだろう。曲の難易度も今までとは違う。  今日は所謂上位グループの試験の日。赤ネクタイ五人を含むピアノ専攻の中でも間違いなくトップクラスの奏者達が試験に挑む。先生達も心なしか張り詰めた空気を出している。『ピアノを止める』と言った佑木くんがどんな演奏をするのかは、生徒だけでなく教師陣の興味も引いていた。そして『本当は止めないかもしれない』という淡い期待と切望もあって、佑木くんはいつも通り最終奏者だったのだろう。  佑木くんの演奏は六時間目の頭あたりで、ピアノ専攻は自習となっていたので、ほとんどの生徒が見にきていた。 「では最終奏者、佑木奏司」 「はい」  呼ばれて佑木くんがピアノに向かう。着ていたブレザーのボタンを外しながらマットに光るフルコンのピアノの前に座った。  背筋を伸ばす。一度口元に右手を当てると何か呟いた。俺には誰かの名前を言っているように見えた。きっと『大事な人』の名前だ。  この2日間、佑木くんを家に泊めて、その練習時間のほとんどを見守ってきた。食事や入浴、生活に必要な最低限のことをしている時間以外、ピアノの音が途切れることは殆どなかった。多分睡眠時間も最小限に止めている。  音が途切れた時、やっと眠るのかなと思って部屋を覗いたら、イヤホンを耳に当てて音を聴いてイメトレしていた。そうやって自分の好きなピアノ奏者の演奏を聴きながら、自分ならこう弾くと脳内でシミュレーションを繰り返しているのだろう。  風邪気味だった佑木くんは、栄養ドリンクと風邪薬兼肩こり解消の葛根湯を流し込んで、また鍵盤を叩き始めた。  とにかくものすごい集中力と練習時間だった。佑木くんの演奏技術は、ちゃんと練習量に裏付けされてるんだと俺は知った。ピアノ専攻の生徒の中には『持って生まれた才能』、『恵まれた家柄のおかげ』などと陰口を叩く者も多くいたけど、その連中が、実際この集中力で、これだけの練習量をこなしているかと言えばそうではないだろう。そうだ、これも佑木くんと友達にならなければ知れなかったことだ。
/88ページ

最初のコメントを投稿しよう!

39人が本棚に入れています
本棚に追加