第1章 王女誘拐

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第1章 王女誘拐

 浮かぶ月は満月にはまだ少し足りない、どこか歪んだ形をしていた。  濃紺の夜空にそびえ立つ城影は、遠目で見た時よりこうして間近で見上げた方が、よりその壮大さを増す。あちらの庭園で咲いているのは夜薔薇だろうか。甘いと呼ぶにはあまりに扇情的な香が、男が今ある場所にまで漂って来る。 「――ラドルフ・インバートさんですね」  建国から既に二百数十年、東大陸の大国として名高いシルヴィア王国の宮殿の一角、王家の離宮から城門へと向かう道を歩いていたラドルフは、唐突に紡がれた己の名に歩みを止めた。 「確かに、そうだが。あんたは確か……」  そこにいたのは、腰まで伸びた栗色の髪を綺麗に梳き流した若い娘だった。売り払えば下々の民が一年は遊んで暮らせそうな最上級の絹で身を包み、耳朶と首筋では宝石が光っている。  その姿に見覚えがあった。当然だろう。今日の昼間、王宮の大広間で彼に勲章を与えた国王の傍らで微笑んでいた娘と同一人物であったからだ。 「この国の姫様が、一介の傭兵に何の用だ」  ラドルフがこの国に雇われたのは、シルヴィア王国と隣国のロルカ国との間に、戦争が勃発した為だった。もっとも元を正せばロルカの王家の内紛から飛び火した小競り合いのようなもので、戦争自体は数ヶ月で終結し、シルヴィア王国とロルカの新国王との間で、正式な和平条約も調印された。  シルヴィア王は戦争が早期解決したことを喜んで、一軍を率いて戦ったラドルフに相応の金と名誉を与える約束をした。今更、名誉など糞食らえと言いたい所だが、もらえる金にはおおいに執着がある。大人しく戦勝の宴で王の前に首を垂れ、夜の間にこの国を抜け出そうとしていたところだった。 「わたしは、フィリエ・シルヴィアと申します。お父様から、あなたがとてもすばらしい剣士だと聞いて、どうしてもお会いしたくなったんです」 「……一国の姫様がこんな夜更けに、一人でよく知らん男に会いに来るか。普通」  今、庭園脇の小道にいるのはラドルフとこの娘の二人きりで、御付の者やら護衛の人間が隠れている気配もない。シルヴィア王家の子供は一男一女、世継の王子と王女の年齢は十歳以上離れていて、王は遅くにできた娘をたいそう可愛がっていると聞く。 「ああ、わたしの護衛なら、今頃あちらの建物で……」  首を巡らせた姫君が何かを言いかけた時、かさり、と背後の茂みが揺れた。戦場を生活の場とするラドルフは人の気配にも敏い。そのラドルフにここまで気配を悟らせなかったのだから、相手は恐らく玄人の類だろう。 「――貴様ら、ロルカの残党か?」  現れたのは黒尽くめの装束に身を包んだ五人の男達だった。それぞれが手に武器を番え、ラドルフと姫君を取り囲んでいる。眼だけを残して鼻先まで布で覆っているので相貌は判別しがたいが、構えといい、眼光といい、恐らく相応以上の使い手だろう。  こんなものを容易に王宮に侵入させるとは、この国の警備体制は一体どうなっているのか。背筋が総毛立ち、腹底から暗い愉悦が沸いて出る。 「姫様は大人しく俺の後ろに……って」  自らも腰の剣を抜き、ちらりと背後に目を向けて――咄嗟、置かれた状況も何もかもすべてを忘れ、ラドルフは眼を剥いた。 「――おい、あんた何をやっている?」  ラドルフの背中と庭園の茂みの中間で、姫君は大胆にも衣服の裾を太腿までたくしあげていた。当然のことながら、夜目にも眩い程の白い腿が露になる。だが白い腿から続いているのは繊細なレースの下穿きなどではなかった。 「あなた達が何者かは知りませんが、我が国の王宮で、客人に対する無礼はこのわたしが許しません。それでも敵対すると言うのなら、かかってきなさい!」  すらり……と鞘から抜き放たれたそれを構えて、姫君が盛大に啖呵を切る。男が扱うような長さも重量もないが、女が懐に忍ばせる短剣とも違う、極めて実用的に造られた長剣の一種だ。しかも構え方が様になっている。――それもかなり。  などと悠長に考えている暇はなかった。一人目の刺客が放った攻撃を身を屈めてやり過ごし、振り向きざま、襲い掛かってもう一人の鳩尾に強烈な肘討ちを食らわせる。反動を利用して飛び上がり、最初に攻撃の手を放った男の首の後ろ――様々な神経が集まった人間の急所に――剣の鞘を突き落とす。 「あ……あ」  目の前であまりに呆気なく倒された仲間の姿に、向き合った三人目の男の腰は最初から引けていた。いくらそれ相応の使い手であろうが、一対一の勝負に持ち込めば、ラドルフの敵ではない。右手に抜き身の剣を左手に剣の鞘を構え、二刀流の要領で打ち合うと、刺客の背が呆気なく茂みの内に沈んだ。背後から抱き起こして腕を首に回し、そのまま力をこめると、呆気なく意識を落として崩れ落ちる。  五人中二人を倒して、どうして残りが一人しかいないのか。その答は、姫君の足許に転がっていた。残り二名の刺客は両脚の腱を断たれて、立ち上がることが出来ずにもがき回っている。 「まったく、呆気ない。わざわざ王宮に送り込んでくるのなら、どうして、もうちょっと腕の立つのを送ってこないのかしら」 「姫さん……あんた」  いや、五人ともちょっとどころか、かなりの使い手だったと思うのだが。 「まったく……なんて姫様だよ」  それ相応の年月を戦場で暮らし、実際の年齢以上の修羅場を潜ってきたとの自負もある。だがまさか今、一国の王宮の敷地の中で深窓の姫君を相手に、本気で感嘆することになろうとは。  ――人生もまだ、そう捨てたものでもない……のかもしれない。  そんなラドルフの心中を知るわけもなく、髪と裾を直した姫君が優雅に一礼する。 「王宮内でこのような目に合わせてしまって、申し訳ございません。お怪我はありませんか?」 「ああ。兎に角、一度、兵を呼んだ方がいい。折角生け捕りにしたんだ。上手く首謀者の名を吐かせられればいいがな」 「そうですね」  あたかも晩餐会でダンスに誘われたかのような微笑を浮かべ、姫君が踵を返そうとする。その細い背を見送ろうとして、ラドルフはその場に片膝をついた。 「ぐっ……」 「ラドルフさん?どうしたんですか!大丈夫ですか!」  身体の左半分が、焼け付くように熱い。いや、痛い。思わず掻き毟った胸元に爪先が食い込んで、血が滲む。  自分の身体を支えることが出来ずに、顔から勢いよく庭の砂利の中に倒れこんだ。割れた雲の合間に歪んだ月が見える。満月まではまだ間があるはずだったが、やはり血の匂いがまずかったか。  それがわかっていたから、あえて止めは刺さずに意識だけ失わせておいたのに、どこかの誰かが遠慮なく血を流してくれたお陰で、予定より少々早目に訪れてしまったらしい。 「ラドルフさん!大丈夫ですか?どうして、こんな――」  駆け寄ってきた姫君の白い手が、苦痛に負けて土を掴んだラドルフの左手に触れる。半ば外れかかった手袋からのぞいた手の甲が、今まさに炎に炙られたかのように焼け爛れていることに気がついただろう。頭上で、訝しそうな声が上がる。 「え……火傷?でも火なんてどこにも……」 「……気にするな。大事……ない」 「そんな、大事ないって感じじゃありませんよ!待ってて下さい、すぐに医師を呼んできますから!」  待て、行くな。叫んだはずの声が口から零れた頃には、姫君の背は既に見えなくなっていた。王宮内で剣を振り回す物騒なお姫様はどうやら足もお速いらしい。……そんな思考を最後に、ラドルフは意識を失っていた。
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