第5章 君がいない未来

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 結局、余計なことに時間を取られたお陰で次の街に迎えず、その夜は山の中で野宿になった。季節は夏の真っ只中で、旅慣れた傭兵二人、炎を囲んでいれば寒いこともない。燃える焔に薪を投げ入れながら、ラドルフは保存食の乾パンを口の中に放り込んだ。 「ラドルフ、お前、ローデシアからの玉輸送の護衛をやってたのか」 「ああ、まあな」  ラドルフがローデシア選王国を去って間もなく、ミドルバ王は元老院を押さえ込み、ローデシアの玉を東大陸に流通させ始めた。同時、閉鎖的だったローデシア国内にも他国の文化が流れ込み、ロルカ国が落ち着きはじめたことといい、時代は大きな転換期を迎えようとしている。  争いごとがなくなれば干上がるのが傭兵という商売で、この一年はどの国でも大きな戦争がなかった為、傭兵ギルドに掛け合ってもまともな仕事が廻ってこなかった。もっとも、夜盗やら山賊やらは今でもあちこちに跋扈しているので、隊商の護衛やら用心棒の真似事で、しばらくは食いっぱぐれることもないだろう。元が軍人上がりなので、傭兵の仕事自体は嫌いではなかったが、正直に言うならもうしばらくは国だの政治だのには係わりたくない。  噛み切った乾パンを口の中で咀嚼していると、皮袋から水をがぶ飲みしていた男が、ロルカの街中で散々耳にした話題を持ち出してきた。 「――フィリエちゃん、縁談が決まったんだってな。もうすぐシルヴィアで国民にお披露目をやって、そのままロルカに輿入れしてくるそうじゃないか」 「……その話なら、知っている。ロルカの国中、その噂で持ちきりだったからな」  行けども行けども聞こえてくるその話題に辟易して、泊まるはずの宿にも泊まらずに山道を進んできたわけだが、そんなことはもうどうでもいい話だ。 「行かないのか?フィリエちゃんの花嫁姿が拝めるんだぜ?」 「何で俺がそんなところに行く必要がある。大体、シルヴィアの民でもない俺が、そんな場所に入れるものか」  王宮の大広間を国民に開放し、嫁入りする姫君を披露するというなどというふざけた習慣は、先代の王の時代に始まったらしい。そうしてロルカに嫁いだ王女が生んだのが現在のマルコ三世で、フィリエとは従兄弟同士の関係になる。顔も名前も知らない敵国に人質同様に嫁がされることもある王族においては、格段に恵まれた縁組だろう。二番目に生まれた男子は養子としてシルヴィアに引き取られることが今から決まっているそうで、行く行くは、ロルカとシルヴィアの王は兄弟になるということだ。  取りとめなく埒のないことを考えていた鼻先に、ひらひらと白い封筒が振りかざされた。一瞬、わけがわからずに目を瞬いたラドルフに向かい、カイジャンはにやりと笑って見せた。 「じゃ~ん」 「……?」 「お前がそういうと思ってさ。これ、フィリエちゃんからの招待状。なんと、シルヴィア王家の紋章入り。これさえあれば、シルヴィアの国内はフリーパスだぜ?」 「な……」 「詰めが甘いんだよ、お前は。顔を隠した怪しい剣士が、エリトリアやロルカで隊商の護衛をやってるって、一部じゃ噂になってたんだよ。そいつが、決してシルヴィアの国内には足を踏み入れないってのもな」  二の句が告げないラドルフの手に招待状の封筒を押し付けて、カイジャンはその場にごろりと横になった。傭兵の旅の七つ道具の毛布に包まって、すぐに寝息を立て始めてしまう。  手の中に取り残された封筒を握りつぶそうとして、ラドルフは思わず、空を仰いだ。  薄墨色の夜空に浮かぶ月は下弦の三日月、ここからシルヴィア国内に向かったとしても、満月までには王都に入れる。  しかし―― 「……行きたくない」  呟きが夜陰に跳ね返る。何が悲しくて、好きな女が他の男のものになる姿をわざわざ拝みに行かなければならない。だがその夜、ラドルフはどうしてもその白い封筒を破り捨ててしまうことができなかった。  王女の輿入れの当日、シルヴィア王国の空は快晴だった。  元々、夏場は晴れることが多いシルヴィアでも滅多には見られないほどの、三百六十度見渡しても雲の欠片さえ見つけらない、まっさらな青空だ。王都の中心にそびえたつ王城の屋根の向こうで、鷹とも鷲ともつかぬ鳥が一羽、弧を描いて飛んでいる。  天もまた、新たな旅立ちを迎えた王女の行く先を祝福しているのだろうか。祝福の旗を屋根に掲げた王都の民の表情も、皆一様に明るい。  嫁入り前の王女を国民に披露すると言っても、まさかこの国の民全員が、王宮の中に入れるわけもない。貴族や軍人や豪商――国と所縁のある人間が優先的に割り振られ、あまった席は抽選で一般庶民にも割り当てられる。これがお祭り好きなシルヴィア国民の気質を捕えたらしく、抽選券はすさまじい高値で取引された。王宮の広間でお披露目のパーティを終えた後は、国民へのサービスに王宮の庭を歩いて出て、特別仕立ての馬車で隣国へ向かう。  抽選にあたった幸運な人々が、王女の登場を待っている大広間の一角に、フードを頭からすっぽり被った男が足を踏み入れていた。腰に剣を下げ、顔の左半分が焼け爛れた、見るからに怪しい様相の男の侵入を咎めるものは、今日のシルヴィア王国には存在しない。すべての人間の意識が王女と王家の人間に向いているという理由もあったが、実際のところ、彼がこんな王都の奥深くまで足を踏み入れられたのは本日の主役直々の招待状が手の中にあったからだ。  ――何をやっているんだ、俺は……。  それぞれが一張羅に身を包んで着飾った人々の間にあって、ラドルフの存在は完全に浮き上がっていた。一応、旅の汚れは落として身奇麗にはしてきたのだが、さすがに着飾る気分になれはしない。正直に言うなら、実際にここに来るまでにも随分と悩んだ。それでもどうしても逃げられずに、結局、この場所に足を踏み入れてしまった。  本当は、心のどこかではわかっていた。今はもう彼女にとって、ラドルフの存在などちっぽけなものなのだ。この招待状とて幸せの只中にあって、気まぐれに時を過ごした相手として、懐かしんでくれただけに過ぎないのだろう。  実際に目にしなければ、よい思い出で済んだかもしれないのに。今更、何を思ってのこのことこんな場所までやってきたのか。我に帰った思いで踵を返そうとした時、周囲から歓声が上がった。国の民から敬愛される王家一家が、王宮の中庭に続く披露目の場所――深紅の絨毯を敷きつめた階段の上段にやって来たのだ。 「――今日は、我が娘の為に、これほど多くの民が集まってくれたことを、誇りに思う。皆も知っての通り、本日、我が王女は隣国ロルカ国に輿入れする。どうか、皆も私たち家族と一緒に、祝ってやって欲しい」  初老の国王が、見た目よりずっと張りのある声を張り上げる。父王の後ろから進み出てきたドレス姿の姫君の姿を仰ぎ見て、ラドルフは言葉を失った。 「――姫様、お綺麗になられたなぁ」 「本当、お幸せそう。あの姫様を大切に思わない男なんていないでしょうね」 ラドルフの周囲で、人々が口々に声を上げる。  ――綺麗になった?  ――幸せそう?  こいつらには、本当に眼がついているのか。会っていなかったこの一年の間で、フィリエの身体は随分とやつれてしまっていた。元々細身ではあったが、男顔負けに長剣を振り回す姫君の腕は、しなやかではあっても、あんな枯れ枝のように痩せこけてはいなかった。  人々に綺麗だ、幸せだと仰がれる姫君が、枯れ枝のような腕で手を振って、集まった人々にむかって、機械仕掛けの人形のような笑顔を振りまいている。  ――違う。  こんなものは彼女の笑顔ではない。王宮の庭でいきなり剣を取って暴れだし、港町で胚芽入りのパンを口いっぱいに頬張って、ただの傭兵を好きだと言って笑ったあの時、あの娘はあんな顔では笑っていなかった。  ――あなたはわたしに、人から祝福されないような中途半端な人生を押し付けるつもりなの?  かつての許嫁に吐き捨てられた言葉が、脳裏を過る。  人の幸せとは本当に、誰かに祝福されるかどうかで決まるものなのだろうか。当の本人が感情を押し殺して、周囲に祝福されなければ幸せと言えないのであれば、そんなものはもう不幸せと同義ではないのか。 「違う……」  気づいた時には、言葉が声になってあふれ出していた。違う。違う。違う。彼女にこんな笑い方をさせる為に、あの時、手を離したわけではない。  人垣を掻き分けるラドルフに、周囲の人々が非難の声を上げる。留める手も批判の声も届かずに、ラドルフはただ姫君に近づいて行った。  ――結局、来てはくれなかった。  その日、自分の嫁入りを祝う為に集まってくれた国の民の姿を見渡しながら、フィリエの頭に浮かんでいるのはただそのことだけだった。あの日、最後の賭けのつもりで、カイジャンに招待状を渡しはしたけれど、実際のところはずっと不安でたまらなかった。きっとラドルフはもう、フィリエのことなど忘れてしまったのだ。ほんの一時、護衛という名の仕事をした雇い主の娘のことなど、もう頭の片隅にも残していないに違いない。  深紅の絨毯が敷かれた階段の上で、父と兄との最後の別れを惜しみながら、フィリエは思った。  許婚であるロルカ王は誠実な人柄の少年で、多分、そう悪くない夫婦になれることだろう。ロルカとシルヴィアは友好国で隣国同士、里帰りも気軽にできるし、子供が生まれれば父に孫を抱かせてやることもできる。シルヴィアとロルカが固い絆で結ばれるのは両国の民にとっても望ましいことで、この先ロルカでもシルヴィアでもフィリエが一人きりになることはない。  ――フィリエ、もしも俺が……。  本当は薄々気づいていた。あの夜、彼が何を言いかけたのか。  気づいていたからこそ、その言葉の続きを遮った。フィリエはラドルフが心成らずも、帰る国と家を失くしてしまったことを知っている。だから自分の力で、彼に帰る場所を作ってあげたかった。  それがとてつもない思い上がりであったと気付いたのは、ラドルフが去って行ってしまった後のことだ。自分が何一つ失わずに、何かを手に入れられるなどと、どうして無邪気に信じていられたのだろう。そんな甘い幻想を抱いて、結局、何よりも大切な人を失った。  彼を失ってもなお、フィリエの世界はなくなったりはしなかった。これからだって、続いて行く。一人を好む癖に、本当は誰よりも一人を恐れていた、愛おしくて大切な人を、この世界にたった一人で置き去りにして。  手に持っていた花束を父に手渡し、国を去る為の最後の挨拶をしようとして、不意に弾かれたように、フィリエは悟った。 「違う……」  やっぱり駄目だ。これは違う。父がいても兄がいても、大勢の民が喜んだとしても、今のフィリエにとってそれはもう一人であるのと同じことだ。 「お父様、わたし……」  躊躇うフィリエを見下ろす父の眼差しが、ほんのわずかに険しくなる。唐突に声が響いたのは、その時のことだった。 「――フィリエ!」    その日、王女の嫁入りを祝う為に王宮に集まったシルヴィア王国の人々が眼にしたのは、腰に剣を下げ、頭からすっぽりとフードを被った得たいの知れない男が、恐れ多くも彼らの姫君を呼び捨てにする光景だった。  顔の左半分が醜く焼け爛れた――よく見れば右側はそれなりに整った顔立ちの青年が、躊躇うことなく深紅の絨毯を駆け進んで行く。国王一家が揃った階段の前までやってきて、腕を伸ばして声を張り上げた。腹の底から響き渡る、今日の青空のような清々しい声だった。 「世界が見たいんだろう?――来い!俺が見せてやる!」  あまりにも不遜すぎる突然の闖入者に、集まった民も貴族も軍人さえも一瞬、動くことを忘れて出来ずに男を見た。男は彼らを見なかった。息を切らして肩で息をして、ただ壇上の姫君を見ている。 「ラドルフさん……」  次いで彼らが目にしたのは、彼らの姫君の顔に浮かんだ、大輪の華が開くような幸せそうな笑みだった。先程までの笑顔が花瓶に生けられた紛い物の微笑ならば、今のそれは野に咲き誇る本物の花だった。どんな嵐にも日照りにも、決して手折られたりはしない、正真正銘本物の。 「――はい!」  背後の家族を振り返ることさえしなかった。取り囲む兵士や貴族達に目もくれず、駆け出した姫君の手から祝福の花束が、真珠のティアラが、投げられ、外されうち捨てられて行く。揺れて胸元にぶつかるのがわずらわしかったのか、宝石の首飾りを引き千切って投げ捨てて、しまいにはドレスの裾さえも破って捨ててしまう。履いていた踵の高い靴などは、とうの昔に脱ぎ捨てられて階段の上だ。  呆けたように動けないでいる人々の目と鼻の先で、最後の数段を姫君はすっ飛ばして宙に身を躍らせた。最前列に陣取っていた女性陣の何名かが悲鳴を上げて目を覆ったが、姫君の身体が床に叩きつけられることはなかった。腕を伸ばした男が彼女の身体を、しっかりと抱きとめていたからだ。  ほんの一瞬きつく抱きしめあって、姫君と闖入者が、王宮の広間の出口を目指して行く。互いに互いの手を固く握り締めたままで。 「――何をしている!お前たち、早くあの二人を追え!」  最初に我に帰ったのは、優秀すぎるこの国の王太子だった。険しい声で兵士に追跡を命じようとしたその行く先を、王の腕が遮る。 「……行かせてやれ」 「ですが!父上!」  エルモンドとて、妹の幸せを願っていなかったわけではない。だからこそ嫌われ者を買ってでも、二人の仲を割こうとしたのだ。一国の姫君と一介の傭兵が平穏に暮らして行かれるはずもない。  国の行く末を考えなかったといえば、嘘になる。だがこの一年、塞ぎがちだった妹に強引に縁談を進めたのは、彼なりの愛情の示し方だった。  さらに言い募ろうとして、父王の瞳に光るものを見つけて言葉を飲み下す。一国の王は、この時一人の父親の顔をして微笑んでいた。 「お前は本当に優秀な自慢の息子だ。――だからたまには、わしの顔も立ててくれてもよかろう」  敬愛される国王一家の下方で、集まった国の人々から、歓声が上がった。
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