第1章 王女誘拐

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 収穫期にはまだ早い、青々と緑を茂らせた田畑の合間を馬車が進む。馬を操るのはシルヴィア王家の紋をつけた御者で、二頭の馬は最高級の栗毛馬、車輪が巻き上げる土埃が霞んで見えるほど、豪勢な馬車だ。  王宮を出た時にはあれほど遠くにあった緑が、今は手を伸ばせば届く程近くにある。無数の枝を伸ばし、目いっぱいに太陽の恵みを受けた葉の緑が輝いて見えるのは、今朝方降った雨の名残だろうか。 「わあ……すごい。この辺りまで来ると、空気が澄んでますね。ラドルフさん」  全開の窓から腰まで身を乗り出した姫君が子供じみた感想を漏らす。今日は頭の後ろで一つに束ねた栗毛が風にはためいて、まるで仔馬の尻尾のようだ。 「それはわかったから、頼むからもう少し身を引いてくれ。俺はさっきから、いつあんたが馬車から転げ落ちるかと気になってならん」  これが単なる知り合いなら、物好きな奴だと放っておくのだが。相手が大国の王女――それも一応は現在の雇い主である相手の娘となると、転げ落ちたら拾いに行かねばなるまい。正直、それは非常に面倒くさい。  シルヴィア王国の王宮内で刺客に襲われてから半月あまり、ラドルフは結局、王国を発つことができないでいた。よりにもよって王女の前で倒れるという醜態をしでかした結果、王宮に忍び込んだ刺客とやりあったことが公になり、有難くもなければ嬉しくもない姫君護衛の任につかされてしまった所為だ。 「ったく、何だってこの俺がお姫様の湯治のお供なんぞしなければならないんだ。そもそも、あんたには護衛なんか必要ないだろうが」  送り込まれた刺客相手に対等に渡り合い、一太刀で相手の腱を断ち切る程の腕を持つ姫君である。確かめてはいないが、今も恐らくその衣服の裾をたくし上げれば、あの恐ろしくも実用的な剣の切っ先が覗くに違いない。 「タチアナの湯は貴重な鉱石の成分が含まれていて、傷の治りを早める効果が高いんです。……特に、火傷には」  さすがに身を乗り出すのも飽きたのか、腰から上を馬車に戻した姫君がそんなことをのたまう。さすがは一国の姫君を乗せる馬車だけあって、こうして向かいあっても膝と膝がぶつかるようなことはない。 「生憎、俺のこの傷はそんなものでは効かん。大体、あんた、俺のこの身体が恐ろしくはないのか」  頭からすっぽりと被ったフードを避ければ、顔の左半分から首下まで焼け爛れた肌が露出する。はじめて会った儀式の場所では顔を隠していたし、次にあったのは夜だった。姫君がラドルフを姿を日の下で見るのはこれがはじめてのことだろう。さすがに姫君に見せるわけにもいかないが、衣服の下も左側はすべて似たようなあり様だ。ラドルフのこの姿を目の当たりにした人間は、大抵、目を見張って遠ざかるか、見て見ぬふりをする。面と向かって化け物と罵られたことも、一度や二度の話ではない。 「怖いとは思いません。もう痛くないのかな……とは思いますけど」  向かい合った鳶色の瞳には、彼がこれまで目にしてきたどんな色の感情もなかった。嫌悪も蔑みも哀れみさえもない。 「今はもう何ともない。……あんな風に痛むのは、満月の晩だけだからな」 「え、それってどういう――」 「あんたには関係ない」 「そんな、そこまで言っといて、そこでだんまりしないで下さい!」  ただの雇用者と雇用主の関係では、それ以上の説明してやる義理も義務も存在しない。腕を組んだままで目を閉ざすと、ほんの少しだけ窓を開けている関係で、狭い馬車の内側で風が渦を巻いているのがわかった。戦場の砂や塵が混じった打ち据える風とは違う。撫でられたようなものだ。  澄んでいるかどうかなどわからない。だがこの地を駆ける風の感触は心地よい。それだけは事実のようだった。  目的の地についたのは夕暮れ時、早速旅の垢を落としに一風呂……ということになって、向かった姫君ご自慢のタチアナの湯は濃い乳白色をしていた。シルヴィア王家専用の湯治場というだけあって、他の人間達がやってくる気配もない。岩と木で取り囲まれた屋外の湯殿に身を沈めラドルフは深く息を吐き出した。 「まあ確かに悪くはないかもしれないな……」  この身を人の目にさらすのは気が引けるので、傭兵をしていても湯屋に行くことが出来ず、最近はもっぱら井戸端で身体を洗うだけで済ますことが多かった。傭兵稼業で染み付いた数多の古傷に、湯の成分が染み入ってくる気がする。 「ったく、俺は何をやっているんだ……」  見上げた空の向こう、山の端が深紅に染まり、東の空から夕闇が迫りつつあった。これから姿を現す月は日を追うごとに満ちて行く。風流人ならここで詩の一つでも読んだかもしれないが、生憎、ラドルフにそんな風流な趣味はない。  思っていたより悪くはないが、流石にこれ以上浸かっていると逆上せてきそうだ。傍らの岩に立てかけていた剣を取って、先ほど通った建物に戻ろうとした時、入ろうとしたその戸の中から声がした。 「ラドルフさん?もしかして、まだお風呂に入ってるんですか?」 「は……?ここは男湯だろう!何でお前がそこにいるんだ?」  湯殿へと続く硝子戸は曇硝子で、その向こうにいる人間の姿をおぼろげにしか映さない。だがこの声といい、うっすらと見える人影といい、声の主は間違いなく、彼をこの場所に連れてきた件の王女だ。 「わかってますよ。夕食の準備が整ったから呼びにきたんです。まだ入ってるんでしたら、お背中でも流しましょうか?」  受け取りようによっては非常に危ない爆弾発言に、いささか逆上せ気味の頭に頭痛が走る。王宮内を供もつけずに歩き回ったり、剣を振り回したり、あげく湯女までするというのか、この国の王女は。  ――そんな馬鹿な話しが、あってたまるか! 「流さんでいい!とにかくさっさとそこを出て行け!」  戦場暮らしで鍛えた大声で、盛大に怒鳴り散らしてやる。シルヴィア王家に雇われている限り、この王女と縁が切れることはなく、したがって、ラドルフにとっての湯治は、疲れを取るどころか、余計に疲れをためるものになりそうだった。
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