第1章 王女誘拐

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 夕食は地元の特産品をふんだんに使った豪勢なものだった。畑で取れた新鮮な野菜に川で取れるという魚や貝、地元の猟師が捕えた猪の肉まである。  食後の酒はわざわざ遠方から取り寄せたのだろう。琥珀色も美しい最高級のワインだった。こんなものを食べ慣れた日には普段の生活に戻れなくなりそうな気がしないでもなかったが、出されたものを残すのは性に合わない。たらふく食って口元を拭っていると、姫君の鳶色の瞳と視線があった。 「どうやらロルカの反体制派の一派がわたしの身を狙っているようなのです」 「あの刺客の身元が割れた……のか」 「ええ。五人のうち四人までは尋問の途中で自害しましたが、一人がかろうじて」  その口を割らせる為にどんな手を使ったのか。その手段までは問わないことにする。自白剤の大量投与か拷問か。いずれにせよ、いっそ死んだ方がましだと思わせるようなありとあらゆる手段が用いられたに違いない。 「だからわたし思ったんです。お父様とお兄様に迷惑をかけない為にも、ここはわたしが王宮から出て、刺客の目を引き寄せようと!」 「――は?」  拳を握り締め高々と演説でもするかのような姫君の姿に、一瞬、眩暈がしそうになる。この湯治場の屋敷にいる護衛はラドルフを含めて十数名、姫君の身の回りの世話をする侍女やら料理人やらを含めても精々三十名程度の小世帯だ。こんなところを刺客に踏み込まれでもしたらどうする気なのだ。  大体……とラドルフは顎に手をやる。今回の戦争は、先のロルカ王が数年前に亡くなり、その後、異母兄弟の王子間で、王位継承の争いが勃発したことに端を発している。戦争は正妻腹の弟王子の勝利に終わり、このたび、目出度く新国王として即位した。ロルカの反体制派というには、戦に負けた異母兄の方だろうが、異母兄の王子はロルカ国内の離宮に軟禁され、今はすべての権力を剥奪された状態であると聞く。 「ロルカの反国王派が、今更あんたの……姫様の身を狙って何になるというんだ?」 「前から一度言おうと思っていたんですが、その姫様というの、やめていただけませんか」  国と国との政治問題について話していたはずが、いきなり身近な問題を返された。虚を突かれて目をしばたたくと、姫君――否、王の娘は、苦いものでも含んだように顔を歪めていた。 「わたし、嫌なんです。姫様って呼ばれるの。何だか馬鹿にされてるみたいで」 「そんなもの、あんたを姫君扱いする人間なんざ、この国には吐いて捨てるほどいるだろうが」 「だからです。だからせめて、わたしのことを個人的に知っている人には、姫呼ばわれしたくないんです」  俺とあんたの関係が個人的な内に含まれるのか。そんな気がしないでもなかったが、今この場では口に出さないことにする。いきなり剣を取り出して暴れだされるのもことだし、今は状況判断を優先させたい。 「ならばフィリエ。単刀直入に聞く。お前はこの状況をどう読み解く」 「正直に言うならわかりません。父は弟王子……ロルカ王が国を復興できるよう、力を貸していますから。その関係なのかもしれませんが」  王の座を巡って争う二人の王子。どこかで聞いたような話だし、古今東西を問わず似たような話には事欠かないが、当の本人達にとってはたった一度の人生だ。さぞかし重大事項であったことだろう。  満月の夜でもないのに古傷が疼いてきそうになって、ラドルフは口の中で小さく舌打った。まったくもって馬鹿げている。当人達が争うのは勝手だが、争うならせめて他者に迷惑をかけない処でやってくれ。 「ラドルフさん?聞いてます?」 「あ、ああ。聞いている。つまりあんたは、今この時期に敢えて護衛の少ない場所に出かけて、自分を狙う相手をおびき出そうとしているということか」  そして自分は、おびき出された何処の誰とも知れない間抜けと戦う為に、雇われた護衛というわけだ。まったくもって迷惑きわまりない。それほど危険な旅路であるというのなら、せめて前もってそうと言っておけ。 「――事情はわかった。契約は契約だからな。おびき出されるのが鬼だか蛇だが知らんが……戦うさ。それが俺の仕事だ」  食堂の窓から見上げた空、雲の割れ目にのぞく月は猫の目のように細い三日月、これから月が満ちるまでは、またもうしばらくは猶予があるはずだった。    ――結構、いい人だと思うのだけど。  さすがは男……それも己の肉体を武器に戦う剣士といったところか。大体これくらいかと采配して、余るくらいに並べたはずの料理の皿は、既にすべてが空だった。もっとも、思ったっていたよりはるかに礼儀の良い食べ方をする男で、男が座っていた辺りのテーブルクロスも食器もほとんど汚れていない。彼の身についた所作は荒れくれ者のそれというよりは、ある程度以上教養のある人間の仕草に思われた。  密談を終えたばかりの食卓で、フィリエはたった今、去って行ったばかりの男の姿に思いを馳せる。  ラドルフ・インバートがシルヴィア王国に雇われたのは今から半年程前、ロルカとシルヴィアの国境付近の戦線で、当時のシルヴィア王国軍総指揮官であった将軍が、傭兵ギルドの総長に、たいそう腕の立つ人間がいると紹介されたのがはじまりらしい。もっともシルヴィア王国とて、たかだかそれだけのことで、傭兵に軍の指揮を任せるほど人材不足なわけではない。ラドルフが軍の指揮を取ることになったのは、彼を王国軍に引き入れた将軍が、よりにもよってロルカ領内で敵の矢に倒れてしまった所為だ。  指揮官を欠いて敵国に取り残された王国軍を、彼はほとんど被害も出さずに撤退させ、追いすがる敵にはしたたかな打撃を食らわせた。事実上、たった一人の傭兵の働きによって、国と国との戦争が終結したといってもいい。 「それに、格好いいと思うのよね」  身体に色濃く残る火傷の痕を気にしているのか、長く伸ばした髪を顔の左側に垂らして、普段は砂漠の民のように、生成りの布で頭と口元を覆っている。だがひとたびそれを取り除いてしまえば、黒曜石のような双眸も、鋭く切れ上がった眼差しも、フィリエの眼には充分以上に魅力的に映る。これできっちりと左右対称ならばただの美男子で終わってしまっただろうから、むしろあの火傷の痕があってよかったくらいだ。 「ねえ、貴女もそう思わない?」  問いかけられたのは、先ほどからせっせと夕餉の後片付けに精を出している、フィリエ付きの侍女の一人だった。三十代半ばの彼女は先の戦で夫を亡くし、幼い息子を抱えて王女付きの女官になった。夫が軍の中でそれなりに功績のある武人であることが幸いしたのだが、平民あがりの寡婦にとっては破格の出世だろう。 「格好いいとは……あの、先ほどのまでここにいらした……あの御方のことですか?」  空の皿を盆の上に何枚も重ねたまま、侍女はぽかんと口を開く。 「ええ、そうよ」 「軍人として、たいそうご立派な方だとうかがっていますが……、見た目の点についてはわたくしには何とも……」 「いつもあんな風に顔を隠しているのがいけないのよね。折角あんなに格好いいのだから、皆に見せびらかせばいいのに」  その辺りが価値観の違いというものなのだろうか。本気で首を傾げたフィリエを見て、侍女は密かに嘆息した。 「……姫様にゲテモノ趣味があるとは存じませんでした」  先に席を立って部屋に戻ったゲテモノ――もとい剣士が、このやり取りについて知ることがなかったのは、幸い、であったのかもしれない。
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