1、第一話 十八年前 親兵衛 前編

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1、第一話 十八年前 親兵衛 前編

 山あいに短く、馬のいななきが響いた。  続いて鋭い声がした。こちらは人の、罵声だった。荷馬とそれを引く馬子がもめていた。  馬は、仔馬かと思うほどほっそりして、手綱を奪おうと首を幾度も振った。いらだった馬子が空いたほうの拳を固めると、別の男が割って入った。  これまた大人になりきっていない体つきのその男は、殴ろうとした馬子に謝りつつ、馬の背を懸命に撫ではじめた  今度の男とは相性が良いのか、まもなく馬は従順になった。  しきりと馬に話しかける若い男の顔は、百姓姿とは不釣り合いなぐらい色が白かった。目鼻は冷たいほど整っているが、表情はどこかまだあどけない。せいぜい十四、五の少年だった。  馬と少年の微笑ましいやりとりに、手綱を持つ馬子が不満げに鼻を鳴らした。こちらは少年より少し歳が上のようである。 「おおいお前ら」先頭の馬子からのんびり声がかかった。 「どうした、またかあ」  馬は二頭いて、それぞれに二人づつ農夫風の男が付いている。先頭の男が振り返りもせず言った、 「お互いそんなに似てるのに、どうして仲が悪いんだあ」  後方の馬子はムッとした顔になったが、黙ってふたたび馬の轡を取った。言われてみれば、こちらはやや顔が長い。  二頭と四人の一行を取り巻く山々は、いずれもたおやかで低く勾配も穏やかである。  一行のいる道もまたなだらかで、前に進みさえすれば整備の行き届いた街道筋へと抜けられる。それもあって普段は人や馬の行き来が盛んだ。  山全体が紅葉に染まるにはまだ間があったが、晴れていれば緑と黄色の混じった賑やかな風景が目を楽しませてくれただろう。    だが、あいにく今日は朝から降ったり止んだり、人の姿も常より目立って少ない。昼を過ぎても空は重たい灰色に覆われ、視界は悪くなる一方だった。  一行も雨よけをつけたままだ。馬の荷には藁が巻かれ、男たちは蓑笠を背負っている。先頭の男だけ笠が高みに浮いているように見えるのは、彼の背がひときわ高いせいだった。  長身の男が手綱を引く先頭の馬は、後ろの馬とは対照的に、ひどく年老いていた。さほど多いとも見えない荷を重たげに背に乗せて、慎重に前へと運んでいく。  しかし、元気なはずの後ろの馬はさらに遅れがちだった。馬はときおり手綱の持ち主に反抗の態度を示し、そのたびに前と距離が開く。長身の男はときどき振り返って様子を確かめるが、特に急がせるそぶりはなかった。  小雨が降りはじめた。  雨音がだんだん強くなると、水しぶきを飛ばしつつ後方から見知らぬ急ぎ足の男がやってきた。目深く笠をかぶり、駆けるほどの速さのまま、みるみる一行との距離を詰めていく。  気づいた長身の男は、道端にあった祠の前に馬を止め、飛脚らしい男を先に通した。  彼はそのまま雨降りを気にせずに笠を脱ぎ、背中をかがめて腰を落とした。丁寧に祠に手を合わせる。  痩せた顔には細かい皺が刻まれていた。しかし目つきに溢れる著しい生気は、老馬とのんびり歩くにしては強過ぎるかもしれない。  残った三人のうち、最後尾の少年だけが笠を脱いで同じように頭を下げた。あとの二人は蓑笠をつけたまま所在無さげに立っていた。  祈りを終えると、先頭の男は視線を周囲に走らせ、あたりの様子をうかがった。 「よし」男は立ちあがった。「ま、油断しないに越したことはない」とひとりつぶやいてから出発の合図を送った。一行は再び歩きはじめた。  だが、休憩が短く切り上げられたのが気にいらないのか、また後ろの馬に落ち着きがなくなった。そのうち、 「ああ、もうっ」と甲高い悲鳴が上がった。  若い馬面の男は地団駄を踏み、「いい加減にしろ」と馬を罵りはじめた。 「おおい、惣八。こんどはどうしたあ」先頭からまた、間延びした声がかかった。  惣八と呼ばれた馬面の男は「い」まで口にして、「お、お父っつあん」と言い換えた。「こいつ、噛むんです。腕に、尻も」窮状を訴えかけたが、 「おお、そうか。苦労をかける。蹴られんように気をつけろよ」  頼りのお父っあんからは、のんびりした返事しかこなかった。 「もう我慢なりません、なんとかお願いします」惣八が余裕のない声をあげても、 「なら最初から言ってるように、綱を代わって半四郎の後ろにつけ」と、お父っつあんはにべもない。半四郎というのが馬をなだめる少年の名だった。すると惣八は、 「いえ、それはまたそれで」急に曖昧な態度になった。  一行はふたたび、雨の降る道をゆるゆると進みはじめた。 「ちっ。ただ見てるだけか」援助をもらえなかった惣八は、今度は半四郎に当たりはじめた。  歳上なのを振りかざし、説教口調でしつこく文句を言い続ける。曰く、この馬は生粋の駄馬で理解がし難い。おぬしもそうだ、考えが読めん。駄馬と同類に思われたくなければ、もっと気を利かせろ。手をこまねいてないで、たまには殴ってでも言うことを聞かせろ。 「だいたいおぬしは……」そこまで言って半四郎と目が合うと、惣八は黙った。   二人には、歳の差より際立った違いがあった。惣八が馬面に加えて険のある、癇性の顔立ちなのに比べ、半四郎は表情こそ乏しくても、そこだけ明るく感じるほど美しく賢げな顔をしていた。蓑からのぞく身体つきはまだ成長しきっていないはずなのに、手や首、胸に妙な厚みがある。不思議な感覚を覚えて惣八は戸惑った。 (ほんとに男なのか、女じゃないのか、こいつ……)  しょんぼり雨に打たれる儚げな少年を、からかう悪事を惣八は思いついた。尻でもさわれば黄色い悲鳴を上げるかも知れない。うつむく半四郎に、ほくそ笑みながら手を伸ばしかけたそのとき、惣八は強い悪寒を覚えた。  思わず後ずさりする。得体の知れない気配が半四郎の周囲で渦巻いたのを感じたのだ。  気配は、怯えた惣八を嘲笑ったように思えた。  ぎょっとなって、半四郎をまじまじと見た。  別に魔物に変じたわけではない。ただのかぼそい少年がひとり、立っているだけだ。少し、美しすぎるきらいはあるが。  惣八はぶるっと肩を震わせた。 (まさか、な)    するとようやく、黙っていた半四郎が口を開いた。 「では、わたくしが綱を持ちます」  言下に惣八は、「そんなんじゃない」と顔を背けて答えた。しかし、彼は安心もしていた。半四郎の声音はあくまで少年のそれで、もののけとは縁がなさそうだったからだ。 (風邪でもひいたのかもしれん、きっと熱があるに違いない。先を急ごう)そう考えると余裕ができた。 「ここまできたらどこで誰に会うかわからんだろ」惣八はまた説教口調に戻った。「その時にお前が手綱を持っていたら面白くない。それが分からんのか」  一連のやり取りを、遠くからつぶさに見つめる男が二人いた。  彼らは見通しの良い斜面にある灌木にムシロ小屋を隠していた。人目につかないよう、丁寧に藁や葉を盛り上げ、中にもぐり込んでいる。二人がやっと並ぶ狭さのうえ湿気がひどく、快適には程遠い。  黙々と役目に従う男たちにも温度差はあった。若い方が女湯でものぞくように熱心なのに比べ、年かさの見張りは身を布で拭ったり仰向けになったり、小さく運命にあらがっている。  荷馬一行が歩き、見張り二人が睨んでいる道は、この先にある小さな谷を渡ると二つに分岐する。右の登り道をとると、そのままこの国のお狩場へと抜けられる。  大きないくさの余韻がまだくすぶる時代には、藩主一族によってここで鷹狩りが盛んに行われ、武威を四方に示すのに利用された。だが、百年以上に渡って太平が続けば人心はすっかり変わる。支配者たる武士からしてそうだった。  広々としてほどよく緩急のある、馬で駆けるのに一番いい場所は、風の通りを好んだ藩主一族が保養地にしてしまって、もはや批判する者もいない。それ以外は、もっぱら許可を受けた猟師らが小鳥やウサギを追い、ときどき立派なイノシシが罠にかかる。 「おっ、あれはどうかな。前のよりずっとそれらしい」若い見張りが、さっきの一行について年上の相棒に聞いた。  蓑笠に隠れ、裾を大きくからげた四人の姿は、専門の馬借というより、貧しい荷をもくもくと運ぶ百姓の一行と見るのが自然だった。  しかし遠目のきく見張りは、馬と荷、人との取り合わせが「どうにも引っかかる」と訴えた。 「そうかな。はなから疑ってかかるから、なんでも怪しく思えるのさ」相手は気の無い返事をした。  若い見張りは荷の量の半端さや、足元の悪い日に老馬を使う不自然さを指摘し、これまた不自然な若馬の轡を取った馬子にも触れた。馬と調子を合わせられず、見ている間にも馬は首を振ったり止まったり。あまりに素人臭い。 「誰だって初めてはあるさ」相方はそうなだめたが、意を決した若い見張りは、茂みに身を隠しつつ最接近を試みた。相手の前進を利用して顔を確かめるつもりだった。  きた。  先頭の男は顔の大半が笠に隠れているが、背の高い痩身なのはすぐ確認できた。口元のしわから年齢は中年以上と知れる。一方、だらしなく笠をかぶっているせいで、連れの顔ははっきりわかった。ほおと顎が丸く、二十歳を超えてはいまい。  突然、後ろの馬子が濡れた地面に手綱を叩きつけた。真面目くさって馬を罵る顔はまだ十六、七だった。ついに彼は馬を捨て、すたすた先に行ってしまった。遅れた後ろの馬に取り付き、なだめようとはかる男の顔も見えた。土くささなど微塵もない、清げな少年だった。  それがはっきりわかったのは、少年もまた、怪しむ視線を見張りの潜む茂みに向けたせいだった。  だが、激しく降り出した雨が少年を懸念を封じた。惣八が駆け戻ってきて、馬を打とうとした。馬が遅いせいで大雨に降られたと言うのだ。半四郎は、懸命にそれを止めた。  そこまで確認すると、豪雨を利用して見張りは隠れ場所へと戻った。そして、「知らせてくる」と相棒に伝えるなり、体を低めたままいずこかへと走り去った。 「熱心だな。そう焦るなよ」  取り残された年かさの男が、横になったまま狭い見張り小屋で言った。表情は苦かった。  彼は狭い天井に向かって言った。 「もしあれが井ノ口様なら、黙っていてもに旅はじき終わる。連れも一緒だ。柚木様が井ノ口様に組した者を許すはずもないからな」  男は目を閉じた。「なのに当の井ノ口様は、そこまで憎まれているとは夢にも思っておられぬ。頭がいいのと、人のねたみがわかるのとは別だ」  年かさの男は、誰にいうでもなくつぶやいた。ひどく悲しげだった。 「なあ、あまりに哀れだと思わないか。あれほどのお人が、こんな嫌な天気の日に死を急かされるなんて」  雨脚が強まった時、長身の男は立ち止まった。  ひどくなった雨に戸惑ったように見えたが、その男、井ノ口は現在地を確かめていただけだった。彼は安心したように上機嫌な声をあげた。 「おお、ここまでくればあとはわずか。よく我慢してくれたな。間も無く小屋に着くぞ」  彼は振り返り、馬の横を歩く太った若い男、寺田に言った。後ろで惣八と馬がまた揉めているのは、無視をした。「目指す場所は、表向き小屋と言い慣わしていても、夏になるとお別家が二十人は引き連れてお泊りになる。着替えなどいくらでもあるさ」  さらに彼は長い首を伸ばすようにして、遅れてついてくる二人にも、「あと少しだ、ふんばれよ」と声をかけた。返事はなかった。 「今日、そして明日のことは必ず将来、若いお主たちの血となり肉となる。選んだのはそのためだ。励めよ」そして、井ノ口は懐に入れた手紙にそっと掌を当てた。しかし寺田の返事は井ノ口の予想とは違った。 「はあ。しかし着替えより、食い物が足りなくはありませぬかな」 「さっき、弁当を食ったところではないか」 「一刻も前です。とうに腹から失せました。それに、弱音は吐きたくありませぬが足もひどく痛い」  愚痴を聞いた井ノ口は、怒るかわりに笑い出した。 「情けないこと言うな。お前ぐらいの歳の百姓なら、このぐらいびくともせんぞ」 「仕方ありません。私は町ものにございます。この姿も慣れませんし」 「町ものか。そうだな、田舎暮らしは難しいな。しかしこれからはどうかな」  道程も終盤を迎え、安堵したのか井ノ口の口が軽くなっていた。 「いまは仕方ないが、一段落したら鍛え直さんとな。頭でっかちではいかん」 「はあ」 「その気の無い返事はなんだ。だいたい、この格好で昼間に堂々と街道を行くというのは、おぬしの父親の思いつきなのだぞ。喜んだのはわしだがな」 「ははあ」 「馬子に化けるとは面白いだろう。それに子供ばかりだから、万が一捕まっても命まで取られまい。わし以外はな」  命と聞いて、寺田は急に苦い薬を呑んだような顔をした。 「ここだからお尋ねしますが」彼は左右を見回して言った。一転して眉宇が八の字になっている。不安げだった。 「事態はそれほど差し迫っているのでしょうか」  井ノ口の軽口が止まった。 「父は家でも一切何も申しません。ただ、父に近いところから、『もうこの国はおしまいだ』との声を聞きました。母は冗談に決まっていると申すのですが」 「ふむ。おしまいとな」 「はい」  井ノ口はしばらく前を向いていたが、「そうだな。確かにもうおしまいだ」 「うっ」それを聞いて寺田が喉の詰まったような声を出した。「やっぱり」 「違う、手をこまねいていればの話だ」井ノ口は慌てながら訂正した。「まだ間に合う。いや間に合わせねばならん」  説明をはじめた井ノ口はまず、 「国元が、かつてない異様な事態なのは間違いない」と認めた。半年ほど前に江戸から帰国したが、自分の目で見て確かめるまで、かくも無法がはびこっているとは信じ難かったと彼は言う。 「半信半疑で国に戻ったが、状況は想像をはるかに超えていた」単純なお世継ぎ騒動をはるかに超え、内乱状態にあるに等しいと井ノ口は断じた。肝心の世継ぎ候補たちは江戸にいて涼しい顔をしている。なのになぜ、国元でここまで揉めるのか。 「それに」彼は一段と険しい顔になった。「時間もない」  いくら藩主家が由緒ある名門で対外政治力があるとはいえ、江戸表の不審をごまかすのはもう限界にきている。 「なのに大勢がそれに気づかぬ振りをし、日々を送っている。まるで国全体が怪しい術にかかったかのようだ」  小さな派閥に分かれ、熱に浮かされたように互いを攻撃する連中と、それを見ながら顔を伏せて暮らす大勢の人々。刃傷沙汰も絶えない。こんな状況が公になったら、取り潰しは免れまい。 「元亀天正の昔ではあるまいし、三日に一度は血なまぐさい話が耳に飛び込んでくる。おまけに人々はその異常に慣れた顔でいる。一番驚いたのは」彼は後方をみた。 「あれにいる沢村の兄が命を落としたというのに、誰も真剣に下手人を探さない。あの、沢村林太郎ほどの男が横死したのだぞ。わしが帰国したのも、それが信じられなかったからが……」  井ノ口は呻くように言うと、その後はしばらく黙った。
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