1 琥珀のカーテン

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1 琥珀のカーテン

 夜が明けようとしていた。  カーテンの向こうで鳥の声が聞こえる。けれどカーテンを開く気配はまだ、ない。  後宮の朝は遅い。それも病弱なこの部屋の主のために、皇帝がなるべくゆったりとした朝をと命じているのが効いている。  琥珀色のカーテンにうっすらと光がさす。そのさまを、セシルはまだ自由が効かない体をベッドに横たえながら見ていた。  ベッドに座って、兄皇帝がセシルの頭をなでている。黒い上衣をセシルの肩にかけて、冷えないようにしていた。  兄皇帝のセルヴィウスは、黒衣を好んで身に着ける。今はほどいている長い黒髪と相まって、いつも夜をまとっているようだった。  このクレスティア帝国において、黒髪は珍しい。それもそのはずで、セルヴィウスは海の向こうから買われた少女奴隷から生まれた皇子だった。  それゆえに兄皇子たちとの激しい争いの末、帝位についた。色白で端正な顔立ちに反して、蒼い瞳はこの国の凍てつく冬のように厳しい。  ただセシルにとって恐ろしい兄だったかというと、決してそうではなかった。 「兄上」  セシルが呼ぶと、頭をなでる手が止まる。 「もう私を放っておいてください」  ぽつりと虚空にこぼした言葉に、セルヴィウスは窓の外をみつめたまま動かなかった。  暖炉の火がぱちりと音を立てて落ちる。何度か女官が来て薪木を足していって、夜中燃えていた。  見上げたセルヴィウスの横顔は、ずっと何かを考え込んでいるようだった。  そういうとき、セシルは言葉を挟まない。ただ目を逸らして、セルヴィウスと窓の外の光を見まいとした。  ふいに頭に置かれていたセルヴィウスの手が動いて、セシルの首に触れた。  そこは包帯で巻かれて、血はにじんではいなかったが、熱で少し湿っていた。  セルヴィウスはセシルの首の包帯を触って、血が確かに止まっていることを確認する。夜中、数えきれないくらい同じ動作をした。  包帯を確かめると、セルヴィウスはセシルの肩に手をやって自分の方を向かせる。  見上げた蒼い瞳は、何か言いたげだった。セシルはそれに気づいていながら目を逸らそうとした。  それをとがめるように、セルヴィウスはセシルの両脇に手をついて身を屈める。  セルヴィウスはいつも、セシルの薄い唇を傷つけないようにとでもいうように静かに唇を合わせる。  けれど兄妹のキスというには長く、甘い。炎が氷をなめていくように、セシルをからめとる。  セシルから少しだけ顔を離して、セルヴィウスは問う。 「何が欲しい?」  セシルの頬をなでて、セルヴィウスは言葉を続ける。 「言ってみよ、セシル。宝石でも離宮でも、そなたの望むとおりにしよう」  言葉の甘さに反して、真綿で首を絞められているような心地がした。  セシルはかすれた声で告げる。 「……消えたいのです」  セルヴィウスはゆるりと首を振ると、哀しく笑った。 「無茶を言うでない」  耳元で子どもをあやすように言って、こめかみに口づける。  目元、唇の輪郭、順々に唇で触れていって、つと視線を下げる。  ノックの音が聞こえた。女官がセシルの具合を見に来たのだろう。  兄上とセシルは小さく声を上げて、離れようと身をよじる。  そのとき、セシルは微かな甘い痛みを感じた。視線を落とすと、鎖骨に赤い印が刻まれていた。 「入れ」  セルヴィウスはけだるげに身を起こして女官を呼ぶ。黒髪が首筋を流れる様がなまめかしかった。 「失礼いたします」  セシル付きの女官はすべてセルヴィウスが選んだ者だから、ここに皇帝の姿があるのを当然のように受け入れている。  それにセシルに触れるのもその中で更に厳選された者だけで、セシルの体に何をみつけても吹聴して回ったりはしない。 「まだ体温が低い。部屋を暖め、滋養のあるものを食べさせてやるよう」 「かしこまりました」  だからセシルの体に何かの跡を残すのは、先ほど微かに抵抗する素振りを見せたセシルへの悪戯に違いなかった。  セルヴィウスは自分で身支度を整えると、女官に支えられて身を起こしたセシルを振り向く。  セシルの頬を両手で包むと、額を合わせて低く言う。 「もう自分を傷つけるでないぞ。よいな?」  子どもに言い聞かせるようでいて、それは命令だった。 「一時は本当に危なかったのだ。この細い手で、そこまでの力をこめて」  今は少しも笑っていない目で、セルヴィウスはセシルの目を射抜く。 「体か、心か。いずれにせよそれ以上の痛みがあったのだろう? なぜ私に話さない。私はそなたの何だというのだ?」  セシルは目を伏せて、答えなかった。  その沈黙をセルヴィウスがどうとらえたか、セシルにはわからなかった。 「……暖かいな」  ふいにセルヴィウスは目を閉じて、セシルの頬から首に手をすべらせた。 「昨日よりよほど暖かい。今はそれだけでよい。セシル、愛している。私の」  妹、とつぶやいた声は、独り言のようだった。  セルヴィウスはセシルの頭に口づけると、体を離す。 「ゆるりと過ごせ。夜に、また」  そう言って去っていくセルヴィウスを、セシルは見送った。
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