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「先生、今どこにいるんですか?!」  (あずま)師長の声は通話のしょっぱなから、注射針の尖端並みの鋭さを全開にしていた。  すぐ側で聞いていた薬剤師の三宅なんて、反射的に身をすくませていた。 「先生に預けていたインフルエンザワクチンの問診票がすぐにも欲しいんですよ。明日予定している職員接種の分です」 「僕はワクチンなんて打たないよ」 「そうじゃなくて、先生には問診票チェックをお願いしていたはずですよ。職員のみんなには事前に問診を書いてもらっているから、後は医師の確認蘭に署名するだけ、サインし終わったら薬剤部へ提出してください、ってお願いしていましたよね?!」 「そうだっけ?」 「締め切りは昨日ですよ。もうとっくに書き終わってると思って薬剤部へ来てみたら、三宅先生が何も預かっていないって言うから。一体どこにあるんですか?!」 「そんなのさぁ、明日のことなんだから今すぐは必要無いでしょ」  さも面倒くさそうな口調の皺枯れ声を発している通話相手は、この守屋病院で4カ月前から働いている勤務医の木川医師、63歳である。 「分かった分かった。じゃあ明日までに渡しておくから」  そんなにピリピリするもんじゃないよ、と宥めているような、バカにしたような言い方をする彼は、自分が締め切りを破っていることなんて毛筋ほども認識していないようだった。  東の怒りのボルテージが、更に一段階上がったことは言うまでもない。 「今日中に揃えておかないと明日の朝から打ち始められないんです。50人以上の大人数に注射を打っていくんだから、準備はきっちりしておかないと無理ですよ」 「うーん……確か、僕のデスクの上に置いてると思うんだけどな」 「そこはもう見ましたけど無かったです」 「なんだよ、勝手に触ったの? 困るなぁ、私物も置いてあるのに」  木川医師の声のトーンが急に変わった。  責められる一方だったものが、相手の落ち度も見つけた。ここからは攻勢に転じられるぞ、という張り切った調子が電話越しにも東に伝わってくる。 「そんなの先生が提出してくれないのが悪いんですよ」 「だとしても、断りも無くってのは失礼なんじゃない? ここの病院ってそういうところあるよね。自分の要求だけ一方的に押し付けて来て、最低限の人間としての礼儀をわきまえてない。そういう輩と仕事をするってのは……」 「文句があるなら、せめて提出期限は守ってください」  相手が目上の立場のドクターであろうと、一回りも年上だろうと、東はぴしゃりと言ってのける。  いや、師長と言う立場だからこそ毅然とした態度を意識しているのだ。このロクデナシな先生は、甘やかすと全く仕事をしてくれない、ということを短い付き合いの間に東は嫌というほど思い知らされていた。 「それより、先生は今どこにいるんですか? 病棟内じゃないですよね?」  師長が先ほどから怒っている一番の理由は、その点だった。  木川の声の向こう側からは、車が通り過ぎていく音がひっきりなしに聞こえていたのだ。そして時折混ざるジャラジャラという金属の玉が転がる音。  恐らく木川は幹線道路沿いにあるパチンコ店のすぐ前から電話をしている。それで誰かがパチンコ店の自動ドアを通過するたびに店内の騒音が表まで漏れてくるのだ。 「今、勤務時間中ですよ。午後だからって勝手に出歩かないでください」 「いいじゃないか、別にどこにいたって。こうやって電話も出てるんだし」  木川は大いに口を尖らせたようだ。そういうところだけは見えていなくても手に取るように伝わってくる。 「仕事が山積みなのによく遊んでいられますね。定期処方をなかなか書いてもらえないって、三宅先生も泣いてますよ。それと来週退院する患者さんの診療情報提供書、医事課から依頼されている書類なんかも全然仕上がっていないって報告受けてますけど」 「なんかさぁ、ここの病院って、仕事を全部医者にやらせ過ぎなんだよ。前の病院では医療クラークが代行してくれたからそんな雑用までこなす必要は無かったのに」 「私たちは医師の為すべき業務しか渡していませんよ」 「ちっ……言い方がまるで小姑だな」  大きな舌打ちと共に捨て台詞を吐き出した木川は、そのまま一方的に通話を切ってしまったのだった。
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