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「萌」
「ん?」
「くっついても、いい?」
紅平の要望は、丹羽の返事を待たずに実行された。
「手……離さないと無理だろ」
「やだ」
横抱きの態勢で、丹羽の首元に顔を埋めた紅平は、聞かん坊の子供のようだ。笑って解いた手で、彼の頭を抱き寄せる。笑みと安堵とが混じった吐息のあとに、紅平は静かに言葉を紡いだ。
「あの場所……」
「ん? どこ?」
「さっきの、バス停」
ああ……と、軽く応じたが、そこでの行為を思い出して耳が熱くなった。直に伝わる紅平の温もりも相まり、ようやく平らかになった鼓動が乱れそうになる。
「あの場所で、いつも振り返ってた」
「え?」
「萌が見えなくなるまで、見送るのが、習慣だった。……俺は、友達なんだ、って。何度も、自分に言い聞かせながら、いつも」
なにもない田舎の道端で、ひとり立ち尽くす彼の姿を想像すると胸が痛んだ。友達だった頃――それ以外に、二人の関係に名前が付くことはないと思っていた。
「こんな未来、想像でも、しなかった。だから……嬉しすぎて、どうしていいか、わからなくなる。俺は、想うことしか、できなかったから」
「紅平……」
なにか答えなければ――口を開きかけた丹羽を制するように、強い抱擁が返った。高まった密着度に言葉を失うと同時に、彼の想いを受けとめただけでいまは精一杯な気もした。
「ん、う……」
思わぬ力強さに呻きが漏れた。馬鹿力、と、小さく呟いたが、彼は長い睫を閉ざしたままだった。
(緊張……してたのかな?)
眠りについた恋人が、それなりの時間を経て風呂から上がった理由をうっすらとは想像できた。健全な二十歳の男子がこの状況ですぐに寝落ちできるはずがない。労うように頭を撫でると、「むむ」と不明瞭な声が返った。
同じなのかもしれない。
柔らかな髪に触れながら、今夜の出来事を振り返る。関係を進めることへの怯えも、恋人らしくなりたいと焦る気持ちも、偽りない、正直なものだった。
(お前もそう? 迷ったり、焦ったり……してる?)
こうして触れ合うだけで、すべてを分かち合えればいいのに。
そんなことを思い、数秒後には苦笑した。すでに深い眠りに落ちたらしい紅平を抱きしめて、温もりごと愛おしむ。
体の関係を持ったところで、それは叶わないのだ。
どれほど愛しても、すべてを捧げたとしても、ひとりでしか抱え切れないものが、心には存在する。
「紅平がいいよ」
聞こえないと知りつつも、声に出した。消灯した部屋にポツリと落ちた想いの欠片を、いつか彼に拾ってもらえるだろうか?
恋人として受け入れるであろう痛みも、求めると同時に与えてあげたい悦びも……。
「お前が、いい」
丹羽の声は、闇夜に紛れて静かに消失した。
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