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言い終えて数秒後、丹羽を上回る力で紅平が抱擁から逃れた。
背後の壁に両手を突き、至近距離から見下ろす顔は、いつもながら感情が読みにくい。この整った、無表情の時には周囲を怯ませる友人が、どんな風に笑うのか――笑うとくしゃっとなる顔が少し幼いことも、困った時に上空を見上げる癖も――……他の誰よりも、近くで見つめてきた。
静かに一つ瞬いた伽羅色の瞳をじっと見据えて、溢れそうな想いを吐き出した。
「……俺のものだ。ぜんぶ。……ぜんぶ、だ」
主語を省いちゃったな、と、脳裏で唱えるよりも先に唇を塞がれた。喉の奥から漏れる声も、互いの舌が絡み合う音も、なにも聞こえない。
勢いを強めた雨が、二人の世界からすべての音を奪っていく。
「帰ろう」
狭いバス停で、ひとしきりキスを交わした後に口をついたのは、そんな言葉だった。
沈黙を埋めるのは、時折、強弱をつける雨音だけである。身を離した紅平の表情は見ずに立ち上がると、彼の腕を取った。無言で問い返す彼から目を逸らしたまま、言葉を紡ぐ。
「走るぞ。……俺のアパートまで」
言うなり、屋根下から外へと身を投じた。たちまちに全身を雨になぶられる。熱を灯したままの体で走っていると、無性におかしくなってきた。なんだよ、この状況――星のかわりに夜空を覆う雲を仰ぎ、迎え撃つように雨粒を受け止める。
「流星、俺も見たかった! ……紅平と一緒に、さ」
「見れるよ。まだ、いつだってチャンスはある」
即座に返された声とともに、繋いだ手に力がこめられた。振り返ると、水も滴るいい男は優しく微笑んだ。頭のてっぺんから爪先まで、見事にびしょびしょである。雨の中、声を上げて笑う丹羽を追い抜き、紅平が先を駆け出した。手を離すことなく、しっかりと繋いだまま。
バシャバシャと激しい足音を立ててアパートに着く頃には、二人とも疲労困憊であった。
「溺れた後、みたい」
肩で息をする紅平は、髪から雨滴を落としている。玄関に並んで立ち、互いの姿を見比べた。三和土にはすでに二人分以上の水たまりが完成している。
「とりあえず……」
明かりも点けずに呟いた丹羽に、紅平が直った。薄暗がりに走る微妙な緊張に、つい口をつぐむ。
「……冷てえ」
濡れて冷え切った体を重ね合わせると、先ほど共有した熱はとうに失われていた。水分をたっぷりと含んだ彼のTシャツに頬を埋め、どうしたものかとぼんやり思案する。変わらぬ強さで丹羽を抱く紅平の腕の中で、状況にはそぐわぬ安堵が心身を満たしていった。
「とりあえず、風呂だな」
納得したのかは不明だが、妥当な提案に、紅平は派手なくしゃみで応じた。明かりを点けずに、二人して玄関で衣服を脱ぎ捨てると、下着のみで洗面所へと飛びこんだ。
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