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通い慣れた道を歩く心中は、朝からずっと落ち着かない。
いつもの約束、いつもの「恋人と」過ごす、大切な時間。
(……なのに、緊張してる俺)
どこか気の抜けた八月の夜空を見上げ、どんな顔をしようか考える。すぐに緩んでしまいそうな頬を引き締めると、怒ったような顔になってしまう。はやく、会いたい――喜びだけが胸を占めていれば、いいのに。
(といって、ニヤけてるのもなあ……下心ありありな感じだし……)
頼りない自分を、浮つく心を嗜めるように頬をつまむ。しょっちゅう高校生に間違われる童顔は、いま、どんな表情をしているのだろう?
「あ」
頬をつまんだまま、間の抜けた声を上げた。二日前の雨夜、駆け抜けた同じ道の先から、のんびりと歩いてくる人物がいる。長い手足を持て余すようにして、綺麗な顔には腑抜けた笑みを浮かべて。
一線をほんの少し超えたあの夜と同じ状況に、鼓動が大きくなる。
「どうした?」
「心配だから、迎えに来た」
紅平のはにかむ笑顔が夜に灯る。内心で喜びつつも、照れくさくて唇を尖らせた。
「女の子じゃあるまいし。大丈夫だよ」
「心配だよ。萌は、意外とボーっとしてるから」
なにを!……と、見上げた額にキスが落とされる。丸くなった瞳に映る恋人は、ふ、と目元を緩めた。
「嬉しい、を、止められない。……萌を見たら、なおさら」
先ほど喝を入れるべく自分でつまんだ頬に長い指がそっと触れて、小さく息を呑む。
(なんつー素直さだよ……。どうすれば、そんなサラッと甘い台詞を言えるわけ? しかも、照れてる顔が可愛いすぎるだろ!!)
誰もが見惚れる綺麗な男を見上げていると、本当に俺でいいのかなと、いまさらながらの素朴な疑問を抱かずにはいられない。
(ただ……受け入れるだけじゃ、ダメだ)
守られるだけの、注がれる愛情を求めるだけの存在になど、なりたくない。
柔らかに塞がれた唇から、甘い熱が全身に伝わっていく。消すことのできないためらいは、閉じた睫の先で微かに震えていた。
「行こ」
解放された唇には、初めてではない温もりがきちんと残されていた。熱を持ち始めた芯も、あの夜から消すことができない。
先を歩く紅平の背中を眺めながら、二人で同じ方角を目指していることに、言葉では言い表せない幸福が満ち溢れていく。
「そういえば、庭付き物件だったな」
「雑草しか生えてないけどね」
紅平の部屋は、四室あるアパートの一階だ。古びた物件ながらも一階には狭い庭が付いている。植木など皆無の、まばらに草花が咲くだけの用途不明のスペースだ。謎スペースの向こうには大家宅の広大な庭が広がるというシュールな光景である。
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