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(上がった途端に押し倒されると思ってた……)
あらぬ想像をしていた自分が恥ずかしく、なんとかして気持ちを整える。小ぶりのリュックを下ろし、小さく息を吐き出した。落ち着け、俺。
掃き出し窓を開けると、備えつけの古びたウッドデッキが出迎えてくれる。網戸を開けて見上げると、残り三部屋はすべて暗く、住人たちは不在のようだ。
生温い夜風が緩やかに髪を乱す。上空に据えた視線を下ろす勇気が出ない。いま――いま、俺は、どれほど浅ましい表情をしているのだろう?
「萌」
窓を閉めて振り返ると、やましさなど微塵もない無垢な恋人は、なにかを差し出した。
「これ、おみやげ」
「ゆずサイダーに、わさびラムネ……。お前ね、こういう時は、片方は王道の味にすべきなの。ほら、俺みたいに」
笑って礼を述べると、窓辺で隣に並んだ彼に手にしたビニール袋を差し出した。紅平から受け取った飲料の瓶は冷えており心地よい。「ちょっと、溶けたかも」先ほど、コンビニで買ったカップのアイスクリームも容器の表面は水滴まみれだった。
「王道のバニラ、変化球のチョコクッキーピスタチオ!」
「……なるほど、そういう二択か」
アイスのカップを紅平の頬に軽く押しつける。小さく声を上げて笑う姿に、つられて笑顔になった。
もし、彼との恋が、心身ともに痛みを伴うものであっても――。
ピスタチオのアイスを選び、しげしげとカップを眺める綺麗な恋人を見つめてひとりごちる。
(その傷を癒せるのも、こうして過ごす時間……だと、いいな)
肉体でうまく繋がることができなくても――……そんな前置きは、逃げでしかない気がした。といって、自信満々に挑めるはずもない。
「なに?」
視線に気づいた紅平の微笑はどこまでも清らかだ。煩悩まみれの自分が恥ずかしく、アイスのスプーンを咥えてうつむいた。なんでもない――そう言いかけた丹羽の声は、一瞬の閃光の後に掻き消された。
「あ……」
ドンッと鈍い音が鳴り響く頃には、夜空の華は散っていた。続けざまに一つ、また一つと、大輪の華が開いては消えていく。
「地元の花火大会かな。駅でチラシを見た気がする。大がかりじゃないけど、毎年あるらしい」
「電気、消すよ」
暗がりに沈んだ部屋にも、鮮やかな光がこぼれ落ちてくる。形を失ってもなお夜空に残像を残す夏の輝きは鮮やかで、どこか切ない。
隣を見上げると、花火の光に紅平の横顔が映し出された。打ち上げる音が微かな余韻を落とす暗い部屋で、恋人としての距離感に未だ慣れない。それでも、振り向いた彼の視線から逃げることはせずに、落とされたキスを静かに受けとめる。
「ん……」
紅平の片腕が体に回され、どちらのものかわからない熱が全身に伝わっていく。闇と光の饗宴から目を背けたキスは、微かにラムネの味がした。
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