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丹羽の定位置は店に入ってすぐ、目の前のカウンター席である。
L字型のカウンターは、店の奥に向かう側に五席、入り口側が二席の造りである。時間帯や繁忙期によっては客の出入りが多くて落ち着かないし、冬場はドアが開閉するたびに冷たい風が入りこむ。一般的には不人気な席だろう。
カウンター内に立つ彼と目が合う。
ざっくりとした白いシャツに丈の長い黒色のエプロン。普段から、着るものには頓着しない。無彩色を好む彼の姿は、全体に色味が少ない。すっきりとした肢体にシンプルな服装が却って映えた。
(ちょっと疲れてる感じに見えるな……)
無表情から微笑に変化するまでの顔の動きは、見て取れるほどはっきりとはしていない。それでも、丹羽の心を捉えて離さない、柔和な微笑み――。
不意に、視界が大きな球体二つに阻まれた。
顔を上げると、ダイニングバー・アイグーの女主人、薫の不敵な笑顔にぶつかった。
「外でいちゃつくなぁッ」
「俺、なんにも……ただ座ってただけ――」
「顔! 顔! 顔!! いやらしい顔して見つめ合っちゃってさぁ!」
伸ばされた手で耳をつかまれて悶絶する。カウンターの向こうでは、紅平が右往左往していたが、咆哮とともに振り仰いだ薫に怯み、すごすごと奥に引っこんだ。無論、他にも客はいる。日常ともいえる店の光景に、誰も反応を示さない。
「はい、お待たせ。欲情まみれの男が淹れた珈琲! きっと淫猥な味がするわ♡」
「……どうも」
丹羽の視界を塞ぐべく、カウンターに頬杖をついた薫はにっこりと微笑んだ。大らかな人柄を表す口角の上がった唇は、濡れたような赤色で縁取られている。
(顔、出ちゃってんのかなあ……)
――萌。
紅平の声が、指が、唇が……心身に幾度となく刻まれた痕跡たちが、たちまちに蘇る。火照り始めた顔を見破られないために、口をつけるには早すぎる熱い珈琲を用心して啜った。
『友人』から『恋人』へと関係が変わり、間もなく一年が経とうとしていた。
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