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七月も下旬にさしかかり、絶対に落とせない必須科目の前期試験や卒論制作、資格試験対策やらで、存外に多忙な日々が続いた。
紅平はバイトを続けていたが、スタッフが増員されたことや、薫の配慮もあり、ごく少ない回数で不規則に入ることが増えた。彼目当ての客も多く、店的には助かるそうだ。
「なに、寂しそうな顔してんのよ。最近のアンタは妙に色っぽくて、女として大いに嫉妬するわね」
いつものようにカウンターにでん、と肘をつく薫にそんなことを言われて、パスタを噴きそうになった。
「からかわないでください」
「なんで、わざわざ紅平のいない日に来んのよ。ちゃんと連絡取ってんのぉ? あいつはあいつで、珍しくイライラしちゃっててさ」
「忙しいんですよ。……あいつは特に。俺みたいに地元に帰るわけじゃないから、余計に」
言葉にすると、まだ半年以上も先のはずの別離が間近に迫る気がして、胸が詰まった。レモンを微かに感じる冷水を流しこみ、愁雲を蹴散らかす。ここ二週間、大学でも顔を合わせていない。
「理解ある恋人ぶろうったって無駄よ。寂しい、って顔に書いてあるもの」
伸ばされた手に、またもや耳をつかまれるかと恐れたが、深い夜を思わせる藍色のマニキュアが施された指先でそっと頬をなぞられた。今宵の薫は慈愛の女神だ。奇跡の一夜と言えよう。
「いま、寂しいなんて言ってたら……卒業後を想像できない。それに――」
俺に、選択肢など、あるのだろうか?
来年の四月には、紅平は本社での研修を経て、早速海外へ発つのだ。同級生の中でも輝かしい部類に入る未来が待ち構えている。
そんな彼に、何を願うと言うのか?
離れている間も俺のことを忘れないでほしい、と? 本当は離れたくない、寂しくてたまらない……めそめそと泣くような真似はしたくない。 そんなのは、ただの俺のエゴでしか――。
「ちゃんと、伝えなきゃダメよ」
黙りこんだ丹羽に、静かに薫が告げた。慰めでも叱責でもない、穏やかな声で。
見上げた先で微笑む彼女は、ひどく悲しげである。店内に流れる夏らしい軽やかな音楽も、テーブル席で談笑する客たちの声も、厨房に出入りするスタッフたちの動きも、遠い別世界のようだった。
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