2 สอง

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2 สอง

 車は九時三十分に店に到着した。  高級会員制クラブ『ミラージュ』はスクンヴィット・小径(ソイ)23の枝道の、更に奥まった場所にあった。  周囲は閑静な住宅街で、そこに不釣り合いな、アラブの宮殿を想わせる絢爛豪華な建物が佇み、闇夜の中、煌々とライトップされていた。  ここは選ばれし者だけが足を踏み入れることのできる現代の桃源郷。  マリアはこの店のナンバーワンだった。  店の入口には二人の黒服がいて、マリアを出迎えると同時にその重厚なドアを開けた。  マリアだけは従業員専用の裏口ではなく、客と同じ正面玄関から店に入ることが許されている。  それはナンバーワンが特別な存在であることを、すべての人間にわからせるお決まりの儀式だった。  エントランスには大理石で作られた階段が左右対になってカーブして広がり、上階のグランドフロアーへと繋がっていた。  グランドフロアーはその名の通り広大で、座り心地の良さそうなソファーがおよそ三十セット、ゆったりと余裕を持った配置スペースで並べられ、さらに上のフロアーに行けばカラオケルームやジャクージ付きのスイートルームなど、大小様々な個室も用意されていた。  ステージではピアノを中心としたフィリピン人バンドが、スタンダードジャズを演奏している。  また壁際にあって一際目を引く、高さ四メートルの巨大な水槽では裸の女が三人、人魚のような優雅さで舞っていた。  ここで働く女たちは皆、モデル級の美女ばかりだった。  実際に雑誌のグラビアページでヌードを披露している女もいたし、過去に端役で映画出演をしたことのある女なら掃いて捨てるほどいた。  この店の主な顧客は外国人駐在員とタイ財界人だった。  会員になるには現メンバーの紹介というステータスを満たした上で、入会金が九万バーツ。  それに加え、毎回馬鹿にならない額の飲み代やボトルキープ代、個室利用時には特別サービス代なども発生する。  『ミラージュ』のオーナーの名はソンチャイ。  俺のチャオポーで、裏社会の大物だ。  政界財界にも顔が広く、幾つもの会社を経営している。  俺は一年前からソンチャイのボディガード兼運転手をしていた。  その頃、ソンチャイは日本の会社との取引が増えてきたこともあって、日本語の話せる運転手が必要になったのだと言っていた。  たまたまヤワラート(バンコクの中華街)の賭場にいた時に、組織の人間から声をかけられた。  何故、俺が日本語を話せることを彼らが知っていたのか、その理由はいまだにわからない。  最初は上等なスーツを着させられ、どこへ行くにでも連れ回された。  しかし俺はタイ東北地方(イサーン)育ちだ。  肌の色は中国系タイ人とよく似ているが、そもそもタイ語ですら訛っているし、なによりも教育がなくてものを知らない。  肝心の日本語だって、とてもじゃないがビジネスで使えるようなシロモノではない。  そのせいか、しばらくするとソンチャイは他の運転手を使うことが増え、俺はマリア専属のドライバーに回された。  その頃のマリアはソンチャイの愛人(ミアノイ)になっていた。  マリアになる前のフォーが俺と同じイサーン出身だとわかったのは、出会ってすぐのことだった。  例の日本人から得た金の分け前を手にした俺は、思い切って彼女を食事に誘った。  ……とは言え俺たちが幾ら金を持っていたとしても、気軽に入れる高級レストランなどこのクルンテープに存在しない。  結局、プラカノンの川沿いにあるイサーン料理の屋台で青パパイヤのサラダ(ソムタム)焼き鶏(ガイヤーン)蒸した餅米(カオニャオ)など、子供の頃から食べ慣れた料理を二人並んで頬張った。 「フォー。いつか田舎に帰りたいか?」 「田舎? 絶対イヤ。……アタシ、香港に行って歌手になりたいのよ」  そこでフォーは最近流行のポップスを歌いだした。  決して上手な歌ではなかったが、とても幸せそうな歌声だった。  もっと歌ってくれ――。  そう頼むとフォーはすっかり照れてしまって、それきりもう歌ってはくれなかった。  食事の後はエカマイにあるフォーのアパートに行き、朝まで何度もフォーを抱いた。  それからも何度かフォーを抱く機会はあったけれど、結局一度も、どちらからも、「愛している」とは口にしなかった。  もっともフォーにそんな気持ちがあったとは思えなかった。  その後、時々ナナプラザで見かけるフォーは、常に白人や日本人の腕に抱かれていて、それを平気な顔でやり過ごすのはかなり難しい問題だった。  次第に俺はナナに行かなくなり、そのうちフォーの存在自体をすっかり忘れていた。  だからスクンヴィットのクラブで、  ソンチャイの隣で、  ソンチャイに寄り添い、  あからさまに淫らな態度でソンチャイに媚びを売る、マリアという名前に変わっていたフォーを見た時は心底驚いた。  以来、俺は彼女をフォーではなく、チャオポーの愛人(ミアノイ)であるマリアとして扱った。  馴れ馴れしく話しかけもしなかったし、過去の話も一切しなかった。  そうしてお互い別人のように接しているうちに、  かつて二人の間にあった過去の出来事など消えて無くなってしまったような気さえしていた。
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