3 สาม

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3 สาม

 その晩、俺はトンローのカラオケ屋で、顔見知りの三輪タクシー(トゥクトゥク)ドライバーが歌う下手糞なタイ大衆演歌(ルクトゥン)を聴きながら、安いメコンウィスキーを呷っていた。  二時間前にソンチャイとマリアを、ラップラオのコンドミニアムまで送った。  後部座席の二人は俺に見せつけるように抱き合い、じゃれあい、愛撫を繰り返し、その度にマリアは嬌声をあげて悦んでいた。  淫靡な喘ぎ声がいつまでも脳裏にこだましていた――。  その時はだいぶ酔っていたし、カラオケの音もうるさかったので、電話が鳴っていることに気がつかなかった。  きっとしばらく点滅していたのだろう、従業員の女が俺の尻ポケットから携帯電話を抜いて手渡してくれた。  電話の向こうの声はマリアだった。 「お願い、今すぐ来て。お願い、助けて。早く、早く、早く――」  その声は震えていた。  何かとんでもないことが起こったのだ。マリアとソンチャイの身に何かが――。  俺は椅子を蹴倒すようにして立ち上がると、否が応でも悪い予感が脳裏を駆け巡る中、道路脇に停めたベンツに飛び乗り、急いでマリアのコンドミニアムへ向かった。  マリアの部屋は十八階建ての最上階だと、いつか聞いた。  そのコンドミニアムは高級ホテルと同レベルのサービスが売りで、豪勢なプールにスポーツジム、ヨガスタジオにマッサージルームまで備わっている。  またメイドが部屋の掃除や洗濯もやってくれるし、頼めば料理も作ってくれるのだと言う。  それらはすべてシスターと電話で話すマリアの会話から聞きかじった情報なので、本当かどうかはわからない。  ベンツをエントランス正面に横付けすると、すぐに見慣れた警備員が現れた。  いつも卑しい目付きでマリアを嘗め回すように見るその中年男は、今もこちらに貧相な笑みを向けてきているが、俺は無視して目を逸らした。  自動ドアを抜けてロビーに入ると、左手がカフェスペース、正面はレセプションになっていたが、どちらもこの時間は無人のようだ。  窓ガラスの向こうにはプールがあり、夜中でもライトアップされて水面が揺れていた。  エレベーターホールはロビーの右側にあった。  俺は逸る気持ちを抑えてエレベーターに向かうと、さりげなく上昇ボタンを押した。  玄関に現れたマリアは泣きはらして化粧が落ち、顔がむくんでいた。  下着の上から丈の短いグリーンのガウンを羽織っており、震える身体を抑えるように右手で自分の左腕の肘を掴んでいる。  この部屋に着くまでに想像していたことは、ソンチャイとマリアの二人が最近流行りのMDMA(ヤーイー)か、あるいは覚醒剤(ヤーアイス)を楽しみ、その過剰摂取(オーバードース)でソンチャイが失神している姿だったが、出迎えたマリアの姿を見て、推測はあながち間違っていなかったと思えた。  何故ならマリア自身、ドラッグが効いている人間特有の目の据わり方をしていたからだ。  俺は断らずに部屋の中に入った。  広々としたリビングルームには巨大なL字型の本革張りソファーと、壁一面を埋めるほど巨大なテレビがあった。  サイドボードには高級酒のボトルが幾つも並び、テーブルの上にもレミーマルタンのボトルと、飲みかけのグラスが置かれていた。  その脇に置かれたガラス皿に、雪の結晶を思わせる砕かれた氷砂糖が盛られていた。  もちろん砂糖ではない。これがヤーアイスだ。  さらに炙る為に使ったのだろう、アルコールランプとアルミホイルまであったが、注射器は見当たらなかった。  マリアが注射跡が残ることを嫌がったのかもしれない。  あるいはソンチャイ・クラスが入手するヤーアイスであれば究めて純度が高いものだろうから、吸引だけでも充分な効果が得られたのかもしれない。  いつのまにか背後にいたマリアが、黙ったままベッドルームに通じるドアを指差した。  その向こうにソンチャイがいる――。  俺は気持ちを落ち着かせて、ドアを開けた。  部屋の中は広く、中央にキングサイズのベッドが鎮座しており、その右端に頭まで純白のシーツを被ったソンチャイらしき人間が眠っていた。  途端に悪い予感が全身を駆け巡ったが、俺は眠っているだけだと自分に言い聞かせた。  年甲斐もなく悪い遊びが過ぎたソンチャイは、今夜クスリで正体をなくし、だらしなく眠りこけている、ただそれだけだと。  寝室の奥の壁は悪趣味な全面鏡張りだった。  その中に青ざめた俺自身がいた。  足元にゴルフクラブのアイアンが転がっており、8という数字が書かれたそのヘッド部分に真っ赤な血らしきものが付着していたが、俺はそれさえまともに見ようとはせず、とにかく早く安心したい一心でシーツを捲った。  そこにソンチャイが眠っていた。  裸のまま両手を前に投げ出す格好でうつ伏せになり、見慣れた筈の横顔は、これまでに見たことがないほど土気色で、静かに、呼吸もせずに、眠っていた。  さらに頭頂部の髪の毛にはイチゴジャムのような血がべっとりと付き、不規則な束になって絡まり合っていた。  悪い予感は最も悪い現実となった。  ソンチャイの死――。  ついさっきまで陽気に大声で喋り、酒を飲み、俺の目を見て笑っていた人間が今はもう死んでいる。  それはかなり衝撃的なことだった。  それでも俺は頭を強く振って、冷静であるよう自分に言い聞かせた。  今まさに自分がとんでもないトラブルに引きずり込まれていると言う認識が、少なからずあったからだ。  リビングルームに戻るとマリアはソファーの上で膝を抱えて泣いていた。 「いったい何があった? マリア、チャオポーに何をした?」 「彼が、彼が、アタシを縛ろうとして、殴られて――。クスリもやってたし、アタシにも無理矢理。それで、それで――」  マリアがチャオポーを殺した。  故意にせよ、事故にせよ、それはたいして重要なことではない。  マリアがチャオポーを殺した――。  その事実だけが何度もリフレインした。  俺は頭を働かせた。  ソンチャイは前の晩、どんなに遅くても朝の九時にはオフィスに顔を出す。  日頃から日本人とのビジネスは朝の時間を守ることだと、口癖のように言っていた。  きっとソンチャイは日本人に憧れていたのだろう。  今は夜中の三時四十五分。  つまり遅くともあと五時間以内にマリアを逃がさなくてはならない。  ソンチャイが九時にオフィスに現れなければ皆が探し始める。  すぐに俺にも連絡が来る。  マリアはどこだと聞かれる。  ボスと一緒かどうか聞かれる。  その時にうまく答えられなければ、ボスに何かあったと悟られ、まず俺が責められる。  タイのどこを逃げ回っても、奴等は俺とマリアを追い詰める  その徹底した組織力を、この一年で嫌というほど見てきた。  マリアを差し出せば済む話か?   一瞬、そのことも考えたがすぐに脳裏から消し去った。  マリアがソンチャイを殺し、俺がその事実を知ってしまった以上、二人が生き延びる方法は国外への逃亡しかない。 「マリア、パスポートと金が必要だ。持っているか?」 「うん、パスポートはあるけど現金はあまり無いわ。来週まとめて生活費をもらう予定だったの」 「そうか。今この部屋に幾らある? すぐに国外に逃げなきゃお前も俺も殺される。だからそれなりの逃亡資金が必要なんだ。マリア、現金は幾らある?」  マリアは力なく立ち上がると、玄関脇にあるもう一つの寝室へと向かった。  俺はあらためて部屋の中を見渡した。  ダイニングの椅子の背もたれに見覚えのあるクリーム色のジャケットが掛けられていた。  それは今日、ソンチャイが着ていた上等な麻の上着だった。  近付いて内ポケットを探るとすぐに指先が薄い革財布を捉えた。  しかし喜びも束の間、そのあまりの薄さに期待感が急速に萎えたが、案の定、中身は数枚のクレジットカードと紙幣のみの現金がたったの七千バーツしかなかった。  ソンチャイは今夜も『ミラージュ』でチップを奮発したのだろう。  席に着いた女たちは当然として、給仕したウェイターやフロアマネージャー、クローク、ガードマン、バンドのメンバーなどにも千バーツ単位でチップを振舞うのがソンチャイの流儀だった。  むしろそういったチップ以外でソンチャイが現金を使っているところを一度も見たことがない。  普段の支払いは常にカードを使っていたからだ。  俺は財布から黒いクレジットカードを抜き出した。『アメリカンエキスプレス』と書かれたそのカードは前にも見たことがあった。これ一枚あれば車でも家でもなんでも好きなものが買えるのだと、いつかそうソンチャイが教えてくれた。  こんなに小さくて薄っぺらなプラスチックのカードで何故家が買えるのか、俺には到底理解出来ず、強烈なカルチャーショックを感じたことを昨日のように覚えている。 そこに浮かない顔をしたマリアが戻って来た。 左手には分厚いルイ・ヴィトンの財布が握られている。 「やっぱり二万バーツくらいしかないわ。彼はクレジットカードも持たせてくれなかったから――」  マリアはすぐに俺の手にあるソンチャイの財布に気付いた。 「ねえ、そこに彼のクレジットカードがあるでしょ。それを使いましょうよ」  俺は首を横に振った。 「無理だ。このカードを使えばすぐに足が付いてしまう。どこにいて、何を買ったか、全部ばれちまうんだ」  以前、組織に関わった人間がソンチャイの出資した金を持ち逃げしたことがあったが、逃亡から一週間後に呆気なくホーチミンで捕まった。  クレジットカードの使用履歴がアダとなったのだ。  その男はクルンテープに戻ることなく、ベトナム山中で消息を絶った。  その時に俺はクレジットカードの使用履歴は簡単に追えるという事実を知った。 「そうなの――。じゃあ、そこに現金は?」  再び首を横に振るとマリアも力なく頷いた。  一晩中ソンチャイと一緒にいたのだから大方見当は付いていたのだろう。  マリアとソンチャイの現金を併せても三万バーツ弱。  あとはエカマイの俺の部屋に戻ればシャワールームの天井裏に五万バーツの現金がある。  これまで何年もかけて貯めて、何かあった時の為にと隠しておいた金だ。  しかしそれでも二人の逃亡資金としてはまるで足らなかった。  九時までに手っ取り早く現金を作れなければ、二人を待っている運命は破滅だけだ。  俺は財布を持ったまま呆然としているマリアの肩を揺さぶった。 「マリア、ソンチャイに貰ったブランド品や宝石、時計――。とにかくなんでもいいから金目のものを全部集めてくれ。できるだけ早くだ。いいか?」  俺は再びベッドルームに入り、ソンチャイの遺体に近付いた。  首に掛けられた太い金色のネックレスの存在を思い出したからだ。  それは経済力のあるタイ人なら誰もが身に着ける二十三金のネックレスだった。  ソンチャイのそれは見たところ三百グラムはある。  現在の相場がわからないが、きっと数十万から百万バーツくらいはする筈だ。  しかしこの時間ではヤワラートの金行(金の取引所)はまだ営業しておらず、換金することはできない。  それでも、いずれ逃亡先で落ち着いてから現金に換えたっていい。  なにしろ金の価値は世界共通だ。どこでだって換金できるだろう。  俺はまだ温もりの残るソンチャイの首に手を回すと、ネックレスのフックを外して引っ張った。しかし身体の下で何かがつかえてスムーズに抜け出てこない。  仕方なくソンチャイの肩を掴んで身体を持ち上げ、もう一度ゆっくりとネックスレを引っ張った。  するとネックレスの先端から、縦五センチ、横幅三センチ、厚さ一センチほどの長方形のロケットペンダントが現れた。  これも材質は二十三金で、表面と背面は透明なアクリルガラスになっており、中には座禅を組む僧を模した石の仏像が入っていた。  その仏像は表面が削れて丸味を帯び、全体的には薄茶色だが、ところどころ煤けたように黒ずんでいた。  これはタイ仏教で最も大切にされる御守り(プラクルアン)だった。  しかもソンチャイが肌身離さず付けていたのだから、相当な値打ちものだろう。  タイにおけるプラクルアンはある意味、純金以上に高値で取引されている。  有名な高僧にちなむものや、歴史ある寺の外壁を削って作られたものなど、高いものになれば数千万から数億バーツの値打ちが付く。  プラクルアンの専門誌もあるし、寺院近くに行けば、あちこちの歩道で、自称鑑定士がプラクルアンを並べ、通りがかりの客と取引している光景を頻繁に目にする。  ソンチャイのプラクルアン――。  これは宝くじを当てたようなものだった。  お陰で微かな希望が芽生えた。これを現金化すれば潤沢な逃亡資金になる。どこへでも逃げられる。  しかも俺にはプラクルアンの鑑定士に伝手があった。  俺はプラクルアンをジーンズのポケットに仕舞うと、残ったネックレスはフォーが持ってきた宝石箱に放り込んだ。  中には宝石や貴金属、高級時計など売ればどれも相当な価値のあるものばかりが入っていた。  もう一つ重要な問題があった。  それはソンチャイの死体をどうするか、と言うことだった。  どうせ逃げるのだから、このまま放置しようとも考えたが、可能な限り証拠を隠滅して、逃亡時間の猶予を作った方が良い、そう考え直したのだ。  まずこの死体を処分する。  次にこの部屋にソンチャイがいた痕跡をすべて消す。  その為の問題はここからどうやって死体を運び出し、どこに遺棄するかと言うことだ。   ◇  下着は付けずに、短いスカートと薄いキャミソールだけを身につけたマリアが、酒に酔った演技で足元をふらつかせながら、ロビーで大声をあげ、外のプールデッキへと歩いて行った。  すぐさま二人の警備員が現れた。  もちろんそこには先ほどの卑しい警備員もいた。  マリアは嬌声をあげて二人の警備員に交互に抱き着き、笑いながらプールに飛び込もうとしたが、それを警備員たちが止めた。  彼らの手は必要以上にマリアに触れ、その豊満な身体をまさぐっているようにも見えた。  その間、俺は死体を包んだシーツや血の付いた枕、そして8番のゴルフクラブなどと一緒に巻いた、ベッドカバーの塊を乗せた台車を押しながらロビーを抜け、正面に停めたベンツへと向かった。  この荷物運搬用の台車は駐車場の隅に常備してあるもので、一旦部屋まで持っていき、死体を乗せて戻って来たのだ。  息を殺して、静かに車のトランクを開け、ソンチャイの死体を押し込む。ソンチャイは身長一六〇センチ弱で贅肉も少なく引き締まっており、体重は六〇キロにも満たないが、それでも死んでいる人間は驚くほど重かった。  またベッドカバーの中に、五キロの鉄アレーを二つ仕込んでいるせいもあったのだが、一気に汗が噴き出して、シャツの背中はバケツの水を被ったように濡れた。  マリアの笑い声を遠くに聞きながらエンジンをかけ、ライトを付けずに駐車場を出た。  通りに出るとアクセルを吹かし、そのままスクンヴィット通りを南下して、クロントイ、そしてヤーンナワー地区を走り抜けた。  やがてプミポン橋が見えてきた。  前国王の名を冠した美しく巨大なその橋を渡ると、チャオプラヤ川が湾曲して出来た中州が現れる。  そこには広大で緑豊かな公園が広がっているが、民家は少なく、深夜ともなれば明かりもほとんどないため、真夜中に何か不都合なものを川に捨てたい人間にはもってこいの場所だった。  車のスピードを落として、中途半端に舗装された細い道が続く森の中をしばらく彷徨った。  いつしかやって来た方向もわからなくなった頃、ようやく古い寺の脇から川岸に抜ける道を見つけた。  その行き止まりで車を停め、周囲に人がいないことを確認してから、ソンチャイの死体をトランクから引きずりだし、肩に担いだ。  月のない暗い夜、虫の鳴き声だけがこだましていた。  死体はずっしりと重く、再び背中から滝のような汗が噴き出した。  そのまま一歩一歩慎重に川岸まで進むと、できるだけ音を立てずに、地面に下ろした。  そして頭から先にゆっくりと川に沈めた。  周囲は暗く、川面はもっと暗かったのではっきりとは見えなかったが、水に浸かったそれは何か引っ張られるようにして、一気に川底まで沈んで行った。  そのあとには大小様々な泡だけがいつまでも残っていた。  チャオプラヤ川の水深は驚くほど深く、浄化能力も高い。  メ・ナーム――。まさしく「母なる大河」である。  ソンチャイの死体はすぐに鯰たちの餌となって跡形もなくなり、タイの誰もが信じるように輪廻転生して、またこの世に生を受けるのかもしれない。  もちろん俺はそんなこと微塵も信じちゃいない。  死んだら何もかも消えてなくなるだけだ。  しかし生前のソンチャイは心から来世を信じ、得度の為、毎日寺への参拝を欠かさず、おまけに高価なお守りまで身に着けていた。  ソンチャイは俺からマリアを奪った仇敵であると同時に、俺に仕事と居場所を与えてくれた恩人でもあった。  だから少しだけソンチャイの為に祈った。  神よ、そこに真理があるのなら、彼の願いを聞き入れてあげてほしい――、と。
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