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5 ห้า
ラーマ一世通りで渋滞に捕まった。
ベンが設定した取引相手との約束は朝の九時で今は八時三十分。
普通なら充分に間に合う距離だが、朝の渋滞は死んだように動かない時もある。
案の定、先ほどから十分かけて百メートルも進んでいなかった。
耐えかねたドライバーたちのクラクションが四方八方からヒステリックに飛び交い、なおさら苛立ちが募った。
「アタシね、香港に行ったらやりたいことがあるの」
周囲の喧騒など気にする様子もなく、フォーは至って穏やかな口調でそう話し出した。
「本当はね、アタシ歌手になりたいのよ」
いつか川沿いの屋台で聴いたフォーの歌声が脳裏に蘇えった。
フォーはこの話を俺にしたことをすっかり忘れているようだ。
俺は何も言わずに次の言葉を、あるいはフォーがあの日のように歌い出すのをじっと待った。
「でも、きっと香港には歌の上手な人が沢山いるから、アタシなんかじゃ無理かもね」
「そんなことはない」
慌てて否定した。
俺はただ、もう一度だけフォーの歌が聴きたかった。
「大丈夫だ。フォーならきっと歌手になれる。諦めたらダメだ」
「そう、ありがとう。相変わらず優しいのね」
それきりフォーは会話を終えてしまい、結局歌ってはくれなかった。
ヤワラートに着いたのは九時三十分過ぎで、約束の時間を大幅に過ぎていた。
上層階に『チャヤプームカラム寺院』の入る建物の裏手に車を停めると、フォーにはここで動かずに待っているよう伝えてから、バックパック片手に車を降りた。
目指す場所までは建物と建物の間にできた小径を行かなければならず、歩いて行く以外に方法がなかったからだ。
その小径の入口付近にある雑貨屋の向かいにベンが立っていた。
「オーイ、遅すぎるよ。チャオポーはとっくに待ってるぜ」
「すまない」
ベンの後に続いて薄暗い小径を進んだ。
道幅は広いところでも一メートル半ほどで、徒歩か自転車でしか通行できない。
ヤワラートの裏路地はどこも似たような作りで、こういった小径が四方八方に張り巡らされていた。それは容易に車や部外者の侵入を許さない、中国系タイ人たちの防衛策でもあるのだろう。
ベンはしばらく道なりに進み、ふいに右手の民家らしき入口を入って行った。そこは玄関と言うよりは普通の家の居間のようだった。
壁の高い位置に中国式仏教の祭壇が飾られ、そこに何本もの蝋燭が灯っていた。
部屋を抜けてさらに奥に行くと大きな木が繁る中庭に出た。ちょうど木陰になる位置にベンチが置かれ、端の方には冷蔵庫や洗濯機まであった。
中庭の四方はすべて住居になっているようだ。この敷地内で親戚一族が暮らしているのかもしれない。
ベンはいかにも慣れた雰囲気で右手の階段をかけ登ると、おもむろに正面のドアを開けた。途端に強い線香の匂いが漂ってきた。
通されたのは応接用の居間だった。
片方の壁に巨大な山水画が掛けられ、もう片側には前国王の肖像画が飾られていた。
ソファーの台座や手すり部分は、目の前の巨大なテーブルと同じ材質の木製で、そのすべてに細やかな彫刻が施されていた。
ヤワラートは外から見れば、狭くて雑多で陰湿なイメージがあり、豊かな暮らしぶりなど想像し難いが、一旦中に入ればこのように潤沢な財産に恵まれていることがよく理解できた。
上品な白髪の年配女性が運んできた小さな湯飲みには、色の薄い中国茶が入っていた。
俺たちは一口飲んで、その旨くも不味くもないぬるま湯をテーブルに戻した。
そこに体格の良い年配の紳士が穏やかな笑顔で現れた。
すかさずベンが立ち上がって合掌をしたので、つられて俺も立ち上がり、同じようにワイをした。
それは相手に最上級の敬意を示す、鼻前でのワイだった。
ベンは男を「アンモーさん」と呼んだ。
年齢は六十歳前後だろうか、ビール樽のような太い身体をしており、その顔付きは混じり気のない中国系だった。
「朝から変わった客人が来たものだな」
微笑みながら冗談めかして話すその口調はとても穏やかで、これまで見知って来たチャオポーたちとは雰囲気が異なった。
「それで約束の品はどちらかな?」
アンモーは、もう待ちきれないとばかりに好奇心旺盛な笑顔をこちらに向けた。それは無邪気な子供のようにすら感じられた。
俺はバックパックからペンダントケースに入ったままのプラクルアンを取り出し、アンモーではなく、隣のベンに手渡した。
ベンは先ほどと同じ要領でペンダントケースの留め金を外して中の石像を取り出すと、そこでもう一度、前後左右を確認してから頷き、両手を添えてアンモーに差し出した。
プラクルアンを受け取ったアンモーはそのままソファーに深く座って深呼吸し、手の平にある宝物を愛でるようにそっと眺めた。
それは長年、恋焦がれた愛しき恋人にようやく出逢えたかのような、実にうっとりとした表情で、ともすれば泣きだしそうにさえ見えた。
ベンが、そんなアンモーの横顔に向かって話しかけた。
「アンモーさんならわかると思いますけど、これ、200万から300万バーツの価値はありますよ。大丈夫、僕が保証します」
アンモーはベンを見て頷いた。
「わかっている。お前のお陰でその昔、随分儲けさせて貰ったじゃないか。だからお前の言うことは誰よりも信用しているよ」
そこで俺はようやく気が付いた。
かつて十五万バーツの借金のカタとして手に入れたプラクルアンに、ベンが五百万バーツの鑑定をして、大いに喜ばせたチャオポーとは、今、目の前にいる、このアンモーのことだったのだ。
その時からずっとベンとアンモーは繋がっているのだろう。
何か出物のプラクルアンがあれば声をかけてくれ――。
そう頼まれていたのかもしれない。
アンモーの柔和な視線は一心にプラクルアンに注がれていたが、やがて独り言のように呟いた。
「これは本当に美しいプラ・ソムデットだ。とてもとても素晴らしい。感心したよ。それで――」
そこでアンモーから微笑が消えた。
「百万バーツでいいんだな」
俺たちは同時に頷いた。
「わかった。……でもひとつだけ聞かせてくれ。お前たちはこのプラクルアンをいったいどこで手に入れたんだね?」
ベンは俺を見たが、俺はアンモーを見つめたまま何も答えなかった。
むしろ何も答えられなかったと言うのが正しい。
アンモーはその無言の意味を察したのか、再び穏やかに微笑むと黙って席を立った。
それからどれくらい待たされただろうか。
鼻腔をくすぐる線香のせいで束の間の睡魔に襲われていたその時、紙袋を提げたアンモーが戻って来た。
中身は千バーツ紙幣の束が十個だろう。それできっちり百万バーツの筈だ。
俺はその紙袋を恭しく受け取った。
「安心しなさい。数えなくても間違いなく約束の金額が入っている」
これで取引は無事成功した。
どうにか逃亡資金を手に入れることができたのだ。
帰り際、玄関までわざわざ見送りに来たアンモーに向かって、俺たちは何度も何度もワイを繰り返してからその場を去った。
そして建物から小径に出る手前で同時に立ち止まり、紙袋の中身を確認した。
推測通り、そこには千バーツの束が十個あった。そのうちの半分を自分のバックパックに仕舞うと、残りは紙袋ごとベンに手渡した。
「いいか、ベン。絶対に無駄遣いするなよ」
ベンは飛び跳ねんばかりに喜んでいた。
「わかってる。わかってるって。無駄遣いなんかしないよ。だって俺はこれでノンカイに帰って、お袋に家を建ててやるんだからさ」
俺は呆れて少しだけ笑った。
確かに五十万バーツは大金だが、家を建てられるほどの額じゃない。
でもそれを言えば、いいよ、ギャンブルで増やすから――。
そう答えが返ってきそうな気がして、思わず口を噤んだ。
無駄遣いするなってことは、ギャンブルをするな、と言う意味だが、今それを言ったところでベンには届かないだろう。
俺はベンに対して初めて胸の前でワイをした。
ベンは少し驚いて、それでも照れながら、同じく胸の高さでワイを返してきた。
そして、じゃあな、と微笑むと、来た道とは逆方向の小径へと消えて行った。
そう言えばベンはこの金の使い道について、俺に一度も質問して来なかった。
それが少しだけ不思議だった。
◇
小径から通りに出た途端、強い日差しに照らされた。
体感では既に三十度を超えている。正午には四十度近くまで上がるだろう。
左手で太陽を遮りながらベンツまで歩き出そうとしたその時、雑貨屋の前に立っている二人の男と目が合った。
目の前の二人のうち一人はよく知った顔だった。
男がニヤついた笑みを浮かべて俺を見た。
ベンツの運転席には見知らぬ男が一人座っていたが、助手席にいた筈のフォーの姿は見えなかった。
ベンツの後方にはグレーのボルボが停まっている。
目の前の男の鋭い視線には、こちらを射抜くような威圧感があった。
「おい。なんでこんな朝っぱらからチャオポーの女とお前がこんな場所にいるんだ? えっ? ちゃんと説明してもらおうか」
軍隊上がりの経歴を持つその男は名をサナンといった。
主にチャオポーの仕事の荒っぽい面を仕切る男だった。
サナンの隣にいる、腫れぼったい瞼と醜く折れ曲がった鼻の男は、見るからにムエタイあがりだろう。
何故、彼らがここにいるのか――。
やはりアンモーが裏切ったのだ。
アンモーはあのプラクルアンがソンチャイのものだと知っていて、すぐにサナンたちに連絡を入れたのだ。そうとしか考えられない。
しかし何故、アンモーは俺たちに百万バーツもの大金をくれたのだろうか。
それはあくまで俺たちを油断させるための一時凌ぎに過ぎず、後で幾らでも取り返せると踏んでいたのだろうか。
「チャオポーはどこにいる? 答え次第ではお前もあの女も殺すよ」
サナンは爬虫類のような目を俺とベンツ、交互に向けた。
フォーはあの車の中にいる。
俺は背中のバックパックからできるだけ注意を逸らし、尚且つこの場を凌ぐ言訳を必死で考えていた。
その時、ムエタイあがりが一歩近付いてきたので、俺はすかさず両手をあげて降参をアピールした。
「わかった。わかったよ――。チャオポーはラップラオのマンションにいる。睡眠薬で眠っているんだ」
「睡眠薬? どうして?」
「俺とあいつ、マリアは惚れ合ってるんだ。だから二人して逃げようって」
そこでサナンはベンツに目をやり、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「馬鹿かお前は? そんなことをしてタダで済むとは思ってないよな」
「頼む、見逃してくれ。なあ、頼むよ。金なら渡すから頼む」
サナンの目が冷血に光った。
「俺たちが金で動くと思っているのか?」
「あいつ、銀行に二百万バーツも貯めこんでいるんだ。それを全部アンタにやるから。だから見逃してくれ」
サナンはじっと考え込んでいた。
もちろん二百万バーツは大金だろう。人生を変えられるとは言わないが、少なくともイチからやり直すことのできる金額だ。
もともとソンチャイからは金で雇われているだけの傭兵のような男だ。
サナンが金で動かなければ、いったい何で動くというのだ。
サナンはまた爬虫類を思わせる笑みを見せた。
「その金を見るまではお前らを信用できないな――。今から一緒に銀行に行く。お前はこっちの車に乗れ」
車に向かって歩き出すサナン。
同じくムエタイあがりが背中を向けたと同時に、その耳の後ろに素早い肘打ちを叩き込んだ。
急所――。
もんどりうって倒れる男。
振り向いたサナンが懐から拳銃を取り出した時には、既に俺はベンツに向かって全力で走っていた。
すかさず、サナンが銃を撃った。
一発――、
二発――、
三発――。
路上に当たった弾丸がはじけ飛ぶ――。
銃弾は走っている相手にはそう簡単に当たらない。
それがいくら軍のエキスパートだとしても。
「助けて――」
助手席で顔をあげたフォーが叫んだ。
近づくと男はズボンを膝まで下ろし、醜い一物を曝け出していた。
「フォー、頭を下げてろ」
男が怯えた顔を見せた。
俺は男を運転席から引きずり出す、肘を顔面に叩き込み、サナンの銃弾から盾になるように背中を蹴り飛ばした。
たちどころに男の顔や腹にサナンの銃弾が当たり、血飛沫が飛び散ったかと思うと、男はその場に崩れ落ちた。
急いで運転席に乗り込もうとしたその時、今度は背中全体を鉄板で殴られたような衝撃を受けた。
まさか近くにまだ誰かいたのか?
それでも痛みは一瞬のことで運転するのに支障はなかった。
俺はドアを開け放したまま頭を下げてアクセルを踏み込むと、遮二無二猛発進した。
銃弾が後ろの窓に当たる。
助手席のフォーは怯えてすすり泣いていた。
「大丈夫だ、フォー。このまま空港に向かう。そこで香港行きのチケットを買うんだ。もうすぐこの国を逃げ出せるぞ」
右に左に揺れながら無茶な運転で市街地を切り抜け、高速道路に飛び乗った。
バックミラーを見ると、数台離れた後方にグレーのボルボが見えた。サナンたちの車だ。
俺はエンジンの限界までアクセルを踏み込んだ。
クラクションを鳴らし続け、車線を跨ぎながら誰よりも速く飛ばした。
いつしかミラーの中のボルボは消えていた。
スピードメーターは一ハ〇キロを超えている。
車窓の景色がすべて流線に変わった。
ちょっとの段差で車はおもちゃのようにバウンドする。
あまりのスピードに神経が麻痺しているようだった。
首から下の感覚が薄れている。
「ねえ。……ねえ」
フォーがこちらを見つめていた。
俺はバックミラーの中にボルボを探しながら答えた。
「どうした?」
「痛くないの? 平気なの?」
「何が?」
「お腹。……血がいっぱい出てる」
「血?」
自分の腹を見ると、シートまでびっしょりと濡れていた。
さっきの背中への衝撃は銃弾だったのだと、今になってわかった。
弾は背中から入り、腹から抜けたのか。
そう考えたら急に寒気が体中を覆って、意識が遠のくのを感じた。
「ねえ! 大丈夫でしょ! ねえ! 大丈夫なんでしょ!」
フォーの泣き声がまたヒステリックになっている。
思えばいつもヒステリックに泣き喚いているのがフォーだった。
初めて会った時からそうだった。
ヒステリックに泣き叫びながら、好きでもない男たちに抱かれ、毎日耐え続けてきたんだ。
歌手になりたいだなんて、世間知らずの子供みたいな夢を抱きながら毎日。
そう毎日――。
やがて巨大なガラス張りの青い神殿が見えてきた。
夢にまで見た黄金の地、スワンナプーム国際空港。
高速道路を降りて、そのまま国際線出発階に向かう。
バックミラーにボルボは見当たらない。
香港ドラゴン航空の看板を見つけ、そこにベンツを滑り込ませた。
「フォー、これを持って先に行ってくれ」
血の付いた指先でバックパックを手渡した。
中にはついさっき手に入れた五十万バーツと、俺が長年貯めてきた五万バーツが入っている。
「先に、ってアンタはどうするの?」
「あいつらが来ないか、ここで見張っているから」
「アタシ、先にチケットを買って待っていればいいの?」
「ああ、そうだ、二人分だ。俺は窓側の席がいい。香港の景色が見たいんだ」
「わかった。心配だから早く来て。その傷も早く医者に見せなきゃ」
フォーはそこで俺をじっと見つめると、
ふいに俺を抱きしめ、強く唇を押し付けてきた。
ダメだろう、せっかくのドレスに血がついちまうぞ――。
やがて温かくて心地よい唇は離れていき、
霞む視界の向こうで、黄色いドレスを着たフォーが揺れていた。
フォーはスカートの裾を直すと、後部座席から重たいスーツケースを引きずり降ろし、そこでもう一度俺を見つめて何か言いかけたが、結局何も言わずに背中を向け、スーツケースを引きずって自動ドアの向こうへと歩いて行った。
そのままフォーは一度も振り返らなかった。
俺は全身が冷え切っていて、
凍えそうに寒くて、
何よりも眠くて仕方なかった。
だから頭を強く揺らして眠気を振り払い、
アクセルを踏み込むと、
タイヤを軋ませながらUターンした。
一方通行の道。
クラクションの洪水。
遠くから向かってくるグレーのボルボ。
迷わずにアクセルを踏んだ。
もう一度聞きたかった、フォーの歌声を。
あの日、川沿いの屋台で聴いた、フォーの歌声を。
下手くそだけど可愛らしい、フォーの歌声を。
頼む、フォー。
もう一度だけ歌ってくれ、フォー。
俺の為に。
俺だけの為に。
〈了〉
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