1 หนึ่ง

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 頭上を滑空していく轟音――。  充満した排気ガスのせいでどんよりと濁った低い空を、ジャンボジェットの機影がかすめて行く。  その目的地はガラス張りの青い神殿。  古いタイ語で「黄金の地」を意味するスワンナプーム国際空港。  俺は古いドンムアン空港しか知らない。  スワンナプームには人を迎える為、目の前まで何度か行っただけで中に足を踏み入れたことはない。  噂によれば、そこは途方もなく巨大で、眩しいほどに輝き、現実離れした時間が流れていると言う。  噂によれば、そこから世界中のどこへでも飛んでいけると言う。  そう、どこへだって行ける。  いつか、飛んでやる――。 ◇  その晩、俺はラップラオ通りにいた。  人間の存在を屁とも思わぬ野良犬が居眠りをする道端で、人を待っていた。  頭上ではタイの人気女優を起用した化粧品メーカーの巨大な看板が、夜の街を照らすように妖しく光っている。  約束は夜の八時――。  約束の相手が約束通りの時間に現れる訳などないのだが、ボス(チャオポー)は常日頃から時間を守れとうるさい。  それが国際社会を生き抜く秘訣なのだと。  俺には国際社会がなんなのかさえ、さっぱりわからない。  マリアはちょうど一時間遅れて現れた。  シャム猫のような女、マリア。  小さな顔をより強調する大きなサングラス。  鮮やかなグリーンのドレスが、豊満な身体のラインを際立たせている。  右手に持っているルイ・ヴィトンの新作は贋物ではない。  俺は恭しくベンツの後部座席のドアを開けた。  マリアは乗り込む時、一瞬だけ俺を見た。  けれど俺はマリアの足元だけを見ていた。  ゴールドのハイヒール。  歩いた跡に金粉が舞っていそうな煌びやかなハイヒールに、束の間目を奪われていた。 「今日は行きたくないわ。頭がとっても痛いのよ」 「チャオポーに直接言ってください。じゃないと俺が叱られます」  マリアは芝居じみたため息をつくと、ルイ・ヴィトンから携帯電話を取り出して誰かと話し始めた。 「ハロー、ジョーイ。そう。アタシ。……やっぱり行かないとダメみたい。そう」  電話の相手は姉のジョーイ。  けれどこのバンコク(クルンテープ)に、特に夜の世界に本当の姉妹など滅多に存在しない。  皆同じような境遇で、同じような辛さを紛らわせる為に自然とと呼び合い、慰め合うようになる。  その絆は時として本物の姉妹よりも強固だが、時として呆気なく崩れたりもする。  俺はマリアを五年前から知っている。……と言っても五年前は「マリア」ではなく、「フォー」と呼ばれていた。  その日、フォーはスクンヴィットのナナ通りにある歓楽街『ナナプラザ』のゴーゴーバーで、チップを払おうとしない日本人客相手にヒステリックに喚いていた。  一方、その頃の俺は店の用心棒として生活するチンピラ(ナックレーン)だった。ナナにある幾つかの店とも契約しており、トラブルがあればこうして呼ばれていた。  ママの話では、フォーはチップ欲しさにトイレで客の相手をしたのだと言う。  それが単なるサービスかビジネスか、馬鹿でもわかるようなことだが、日本人だけはなぜかいつも理解しない。 「ふざけんなよ、このスケベな女が勝手にやったんだろうが。金なんか払わねえぞ。ノーマネー、OK?」  まだ二十代前半の二人組。  強気に声を張り上げる汚い身なりをした男。足元はビーチサンダル、だらしなく破れたジーンズに着古したTシャツ、長く伸ばした顎鬚、そのどれもが不快だった。  もう一人は髪も短く、まだマシだったがそれでも同類だ。  おそらくカオサン・ストリートの安宿街に居ついているバックパッカーだろう。  この手の日本人はあまり現金を持っていない。  俺は渾身の笑顔を作った。 「お客さん、ワカリマシタ。お金チョットダケ。OK?」  顎髭が卑しい笑みを浮かべた。 「なんだ、日本語喋れんじゃん。でも本当に金無いんだよ。ノーマネーなの」 「ワカリマシタ、ワカリマシタ。でもここ他のお客さんいる、メイワク。ねえ、アナタ、そこのVIPルームで相談しましょう。OK?」  俺は昔、ムエタイ選手(ナックムエ)だった時に二年間日本にいた。  キックボクシングジムのコーチと、時々試合をしては八百長(マイチン)をする負け犬仕事の為に――。  だから今でも片言ながら日本語が話せる。  チャオポーはそれをとても評価してくれている。  チャオポーの言う国際社会とは主に日本を意味していたからだ。  日本人二人組は不服そうにしていたが、俺の丁寧な物言いにようやく安心したのか、不承不承後からついてきた。  それでもまだ興奮の収まらないフォーは、他の従業員に押さえつけられながらも、日本人に蹴りを飛ばそうと足をじたばたさせていた。 ◇  十分後、俺はの床で折れた歯を拾おうとしている顎髭の顔を、もう一度蹴り上げていた。  血飛沫が壁に飛ぶ。  もう一人は泣きながら震えている。  失禁したのか、ジーンズの股間に染みが広がっていた。  VIPルームとは従業員用の控室のことだった。  店では大音量のディスコ・ミュージックが流れていて、彼等の叫び声など誰にも聞こえない。  俺は短髪の方に話しかけた。 「いいか、サービスの金を払う。わかるか?」  短髪はしゃくりあげながら頷き、Tシャツを捲り上げて、腹巻に隠していた財布を取り出した。それを他の従業員が取り上げた。  中には八千バーツ(約二万四千円)と少し。  他に日本の札が数枚にパスポートまで入っていた。  数えると日本円は約五万円あった。  パスポートは、どうやら初めての海外旅行のようでスタンプが一つしか押されていない。売れば十万バーツ(約三十万円)にはなるだろう。  腕時計は携帯電話と連動する最新モデルをつけていた。  顎髭の方は時計もなければ、パスポートも持っていない。  ポケットの中にくしゃくしゃに丸めたバーツ紙幣が少しだけ。  それでも運が悪かった。  彼らの持っているモノはどれも魅力的で、一線を踏み越えるのにたいして躊躇もしなかった。  もちろん他の選択肢も考えはしたが、後で警察に踏み込まれるよりは、痕跡そのものを消してしまった方が楽だと判断したのだ。  かつては終夜営業だったナナプラザも、今は条例により午前一時に営業を終えなければならない。  その営業終了からおよそ二時間後、すべての灯りが落とされ、ひと気のなくなったナナプラザの裏口から大きな麻袋が二つ、トヨタ・トラックの荷台に積み込まれた。  翌日、フォーからおざなりな礼の言葉と五百バーツのチップをもらった。  それが「マリア」との最初の出会いだった。
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