入り口のそばにいるスパイ

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「だから昨日、危ないところに行くな、って言ったんだ」友人は自室のベッドに寝転がりながら言った。 「そのあと、行きたかった、と言ってたのは誰だっけな」  友人は私の問いに答えずに続けた。「まあ、犯罪があるにしろ、ないにしろ、一見(いちげん)の客ふぜいが、あまり不慣れなことをしないことだな」 「それはそうなんだけど」私はバーでの情けない様子をまだ引きずっていた。  それから私が言葉を継ごうとすると、友人はそれに重ねて言った。 「そのスパイは、店にいる二人の男たちを見張ってるってことかな」 「多分な」私は顎をさすった。「お前も、その男を見たことあるだろう?俺が覚えてる限り、あの男はあの入り口の横に常に突っ立ってた。ちょっとでかい地蔵みたいに」  友人は言われて、天井に視線を這わせた。「確かに言われてみれば見たような気もする。ただ、そんな場所のそんな男、気にかけたこともなかったけど」  ずっとフローリングの床にあぐらをかいていたせいで、座骨が痛み始めていた。私は膝を立てて座りなおした。そして、言いそびれたことを言った。 「携帯を置いて来てしまって、もう一回あのバーに取りに行かないといけないんだよ」  友人は噴き出して、上体を起こした。「おい、下手に事件に巻き込まれても、俺は面倒見切れんぞ」 「だって、しょうがないだろ。俺だって、もう二度とあんな不気味なところ行きたくないよ。でも携帯だけは返してもらわないと」 「電話して、着払いで送ってもらえば」 「いや、あの店の電話番号を知らない。そもそも店名がわからないから、調べようがない」  友人は顔にしわを集め、露骨に難しい顔をした。「まさか、今からついて来てくれ、なんて言わないよな」 「そのまさかだよ。バーはまだ開いてるだろうし、どうせ今夜は暇なんだろ」  私がその場で手を合わすと、友人の開いた口から長いあくびが出た。友人は両手で顔をこすりながら言い捨てた。「犯罪は、犯罪者同士にやらせときゃいいのに」 ◇  まずその男を観察するのは友人の方がよい、そのように思った。当然、先ほど訪問した私の顔は、すでにあのスパイに知られているから。 「いる?」バーへ続く通りの影に隠れながら、私は訊いた。 「いるな。確かに俺も見たことある。お前の言う通り、あいつは今までずっとあそこにいたかも知れん」友人の顔は夜の駅前を(いろど)る光を反射して、七色に輝いていた。 「一人で大丈夫か」  友人の言葉にうなづいたあと、私は暗く沈む路地を進んだ。バーに近づくにつれあの不快な緊張がよみがえり、動く両脚は硬直しかけた。一度だけ振り返ると、友人は心配そうに私の姿を見つめていた。  今度もスパイは私を見た。一時間も待たず再び現れた私を明らかに(いぶか)しんでいた。私はスパイの方を見ないまま、ドアの取っ手を引いた。視界の端で確認すると、スパイはその動作を一秒も漏らさず監視しているらしかった。 「すいません」  マスターの女は、私の顔を見て困惑の表情を浮かべた。その後、すぐにあの隙のない笑顔に戻り、事情を察してくれた。  私の携帯は厨房のステンレス台に置かれていた。それを受け取り、礼を言ってからすぐに退散しようとすると、背中に太い声が浴びせられた。 「ちょっと待て」  私は首だけで振り向いた。声の主は、奥のテーブル席にいた男たちの一人に違いなかった。 「さっきそこで、俺たちの話を聞いたか」 「いや、忘れ物を取りに来ただけです」 「奥に来て、座れ。お前に話がある」  押し問答が始まる前に向き直ると、そのまま駆け出した。それに従い、私を追って走り出す男たちの足音がそこらに響き渡った。動悸が急に激しくなり、たちまち息ができなくなった。それでも脚は止めなかった。  取っ手に触れようとする直前、ドアが開き、表に待機していたスパイが飛び込んできた。スパイはまさに、コートの内ポケットから黒光りする銃を取り出そうとしていた。私は、後は頼んだ、と心の中でつぶやき、スパイの脇を抜けた。そして間もなく、狭い通りを全速力で突っ切った。  背後で数発、銃声が鳴った。待たせていた友人を拾うことに成功した私は、明るい繫華街へと逃げ込んだ。立ち止まったとき、いくら肩で息をしても、しばらく体の震えは収まらなかった。
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